社会貢献の功績
石崎 克雄
都内4ヵ所(新宿地区、品川地区、馬喰町地区、荒川地区)にて約68人のボランティアと共に弁当を調理し、30年にわたり路上生活者に配っている。上野公園(馬喰町地区・荒川地区が担当)では約20人のボランティアが参加している。毎朝3時に起床、調理師だった経験を生かし、100~150食分の弁当を365日作り、3回に分けて自宅と公園を往復し、園内を巡って顔見知りの人に手渡す。自らも勤務先が突然廃業し公園暮らしを余儀なくされた時期があったことから、公園で暮らす人の気持ちがよくわかり、体調は万全ではないが、これからも弁当を配り続ける予定である。
1981年の4月頃、新宿三丁目の居酒屋の料理長兼店長をしていた雨の朝、ホームレスが残飯桶をきれいに洗ってくれているところを見ました。
その話を民謡会のミーティングで話したところ、聞いていた民謡歌手2人が、コマ劇場に出演した後の打ち上げの会の残りもので、おにぎりや味噌汁をホームレスにだしてやりました。
その後、歌謡ショーの打ち上げがあり、今度は車を寄付してくれた演歌歌手がいました。その車を使い新宿公園のホームレスに手伝ってくれる人と共におにぎりや味噌汁を配ってやりました。
そして5年後、手伝ってくれる人の中で、上野で店を出した人から、上野公園にもホームレスがいるよ、と電話があり12月下旬から上野でホームレスのために弁当配りを始めました。会長として食材を集めることで長年苦労し、ボランティアは募集しても集まらず、厚生労働省に掛け合いに何度も足を運びました。「おまえさんは、バカだから一生懸命やっているのだね」とある人から言われたこともあります。
ホームレスも幸せになったら義理や人情も無い世の中で、配食を受けた人の中には、ホームレスから大きな会社に入ったり、お店をやるようになった人でも町で会うとありがとうと言う人がいます。そんなことに心を打たれ今までボランティア活動をしてきました。
私自身、茨城県にある児童養護施設出身です。だから人よりも仕事もボランティアも頑張ってきたけれど、病気になり苦しい生活を送ってきました。またボランティア活動をしても良くは思われないみたいです。例えば東日本大震災で岩手、宮城に私たちのグループが140人もボランティア活動をして、きれいにした花壇の中に入って踏み潰した小中学校もあります。私が注意したら教員は笑ってるような始末でした。
大震災での原発事故により、福島からの野菜や魚が入荷しなくなり、私は直接福島に行って確認したり、農家や漁協などへ電話しても不通の状態となりました。
このようなことから、善意の寄付によるホームレス支援の炊き出しや就職支援などに頑張ってきましたが、福島原発事故以来、茨城・福島海岸通り(国道6号、4号)沿線からの協力が無くなり、支援が大変難しい状況になりました。
炊き出し(弁当)を配った後、千葉方面へ食材集めに行き、夜11時頃に帰る時も食材はからっぽで帰ることが多いのです。茨城の友達に電話でお願いしてわずかに協力してもらったこともあり、またお金がないと八百屋も売ってくれません。
月2回支払しても二万円以上なかったら品物をよこしません。ボランティアで炊き出しをやっているからといって品物は収めてくれません。
ボランティアのよろこびは?
人間だ
だが人間だ
だれにも人間
それにしても人間
時代がちがうと
いっても人間だ
50 年前人と人が
支え合って生きてきた
ああ、絆ってなに…
愛ってなに…
私も体調が万全ではないが、これからも弁当を配り続けるつもりです。