社会貢献の功績
社会福祉法人 視覚障害者支援総合センター
視覚障害者のための大学の門戸開放、学習支援や卒業後の就労促進を主な目的として昭和62年に結成し、25年にわたる活動をしている。奨学生制度の創設、運営を担い、教科書や学術書の点訳も行う。また、点訳者養成の講座を毎年開催し、正確な点訳を迅速に盲学生に届ける仕組みを発展させた。300人を越える奨学生を支援、弁護士や官公庁や有力企業などに、視覚障害者を多く送り出した。社会福祉法人認可後、就労訓練施設を開設。平成14年までに地方公務員や民間企業に29人を送り出している。
当センターのルーツは60年以上も前の1951年にあります。1949年「盲人の大学進学」が認められたことから、51年、当事者で「大学の門戸拡大」「学習環境の整備」「卒業後の職域開拓」などを目的に、日本盲大学生会を組織しました。門戸開放後7年間は毎年2、30人の進学者がいましたが、就職先が飽和状態になり「盲大学生よどこへ行く」とか「大学は出たけれど」と揶揄されたりするほど就職浪人が増えたことで進学者は激減し、私が卒業した58年、同会は自然消滅しました。私も浪人2年後の60年、待望の毎日新聞点字毎日の記者としてやっと職業自立できました。
諸先輩のひたむきな熱意で開いた大学の門を当事者が閉じてしまうようなことや、学習環境の整備・職域開拓も当事者が声を上げ、社会の理解と支援を得てともに行動しなければ進展はない、という思いから、61年7月、仲間に呼び掛け、大阪に27人が集まって日本盲大学生会の目的を踏襲するとともに、新たに「社会啓発書の出版と講演会や集会の開催」などを加え、文月会を立ち上げました。強固な全国組織にするため、62年名古屋、63年東京で話し合いを重ね、64年京都で「文月会」を愛称に「日本盲人福祉研究会」と改名しました。その前年に月刊『視覚障害ーその研究と情報』(現在は6媒体)を創刊しました。
学習即実践を合い言葉に、各種集会や講演会・大会、並行して社会の理解と支援を広げるために国会請願署名を全国的に5回行いました。そのうちの1回はこの種の請願では例をみないといわれた衆参両院本会議で全会一致採択されました。法的に効力はありませんが、立法・行政・社会の認識が深まり、職域開拓や門戸拡大では成果を上げることができました。
職域では71年、東京都職員採用で福祉職Cという点字受験枠が作られ、2人が合格したのを皮切りに、地方公務員・教員や司法試験などでも点字受験が認められるようになりました。91年、国家公務員の点字受験が認められたのをピークに、公的試験への点字導入が広がりました。また大学も少子化と時代の趨勢で進学がスムーズになりました。
一方、会の発足20周年と国際障害者年を迎えた81年を境に、活動の広がりと会の躍進を図るためには、私宅に置いている事務所を含め、東京に拠点を作ることや、会の安定を図るために法人取得が急務だという会内外の声に答え、準備に入りました。たまたま86年7月私の定年退職を機に「東京で課題と取り組んでほしい」という会の意向と、私自身活動の集大成もという思いが重なり、上京しました。
86年4月から、これまた日本初の「盲大生点訳介助事業」を富士(現・みずほ)福祉助成財団が創設して、その運営を委託したいという申し入れも、センター開設に拍車がかかり、その点訳者養成の必要に迫られ、年末から「専門点訳者実践養成講座」を開講しました。
87年7月、杉並で民家の2階を借り受け、現センターの前身、日本初の「盲学生情報センター」の看板を掲げ、96年11月、社会福祉法人の認可を受けました。
2003年、若い視覚障害者の職業自立と社会貢献を願っての「チャレンジ賞」(男性)、「サフラン賞」(女性)の創設。東京メソニック協会が創設した単年度の「盲大生点訳介助事業」の受託。04年若い視覚障害音楽家社会参加促進事業なども含め、教育・職業・福祉・文化の分野で歴史に残る成果を収めています。手前味噌めいたことですが、私たちの生活文字である点字の資質向上と普及を図る目的で「点字技能師制度」を提案し、2000年からスタートして、11回で244人が取得者です。センターは晴盲に関係なく、その資格取得を目指すことを職員採用の条件にし、現在6人が取得者で、これも広がって欲しいものです。
これら60年余にわたる私たちの取り組みを評価してくださり「社会貢献者表彰」をいただけることになりました。これからも皆さまのご期待に反しないよう、職員が一致して歩んで参ります。