社会貢献の功績
Lawrence F. Campbell
1960年代にジャマイカの農村地帯で地域開発事業に参加したことから人の教育やリハビリテーションに強い関心を抱き、1964年からその分野に従事し、その後30年以上にわたりアジア、アフリカ、ラテンアメリカで視覚障害児の教育機会の向上のため尽力し、多くの視覚障害児が勉強に励み社会に参加できることを願い活動を続けられている。
1964年にボストン大学を卒業した私は、当時何の目的もなく、若き大統領ジョン F. ケネディに影響されていた同世代と同じに、発展途上国でボランティア活動をすることにしました。 そして1ヶ月後、西インド諸島のジャマイカの田舎の山間の村落に着任した私は、村の学校の教師としての任務に加えて、いくつかの個別の案件にも取り組むことになりました。その一つは成人識字能力の向上、二つ目は、共同生活を行うようになったハンセン病患者の定期的な健康管理、三つ目は余剰食糧の提供プログラムです。
ある日、私が、食糧流通プロジェクトの関係で遠く離れた農村地域を回っていた時です。階段のかかってない、高床式の小屋を見つけましたが、倉庫なのだろうと思っていたそこに、中年の盲目の女性がベッドの上に座っていて、大変ショックを受けました。 彼女に話しかけると、盲目になる15年前までお針子をしていたと、言いました。 彼女の夫は、妻の視覚の回復見込みが全くないと知ると、彼女を捨てて、遠くへ移り住んだといいます。 彼女は置き去りにされ、この小屋に閉じ込められ、親切な隣人が時折持ってきてくれる残飯だけを頼りに生きながらえてきたということでした。
私は家に戻っても、一晩中この女性のことが頭から離れませんでした。数日後、彼女のもとを再度訪ね、何か教えてあげられる事はないかと尋ねましたが、盲目の人に教えてあげることを見つけるのは困難です。しかしその時の若さが自分を突き動かし、その女性、ハリソンさんと私は一緒に、"何か"に取り組み始めました。
わずかの間に学生であった私が今度は教える立場になっていました。彼女は大変にのみこみが早く、自分で移動したり、自給の作物を作る畑や、火を熾したり、生活に必要な最低限の方法を次々と習得していきました。そんな彼女に対して、近隣の見方も明らかに変わってきます。わずか2年の間に、彼女は障害がある女性のための小規模ローンプログラムを利用して、中古のミシンを入手し、村人の衣服の修繕をはじめました。そして10年後には、小都市に移り、私が見た最後の彼女は、3人を雇う企業の経営者でした。
ハリソンさんと共に過ごしていた間、私は、米国のある組織に、盲人に物事を教える方法についてのアドバイスを求めて幾度となく相談をしました。西インド諸島でのボランティア期間が満了する直前、その組織から、盲人のために教育とリハビリテーションにおける修士学位を取得してはどうかとのオファーがありました。私は喜んでその申し出を受け、以来私の人生が大きく変わったのです。
修士の勉強に続いて私はペンシルベニアとコネチカットで盲目の子供のための行動訓練に専門の指導員として務め、1971年にハートフォードのオークヒル盲学校の副校長に就任しました。 翌年、私は同僚から博士課程への道を進められ、20人に1人という難関を経て、ボストン大学の博士課程の奨学金を受けることが出来ました。
博士課程を修学中に、聴覚障害であって、かつ盲目である子供の教師のための教員養成事業を担当するように大学側から言われました。発展途上国において私の知識や経験をどう生かすことが出来るだろうか、そんなことを考え続けました。
1977年そのチャンスがやってきました。ヘレン・ケラー・インターナショナルの事務局長から、特殊教育のディレクターに就任しないかと話を持ちかけられたのです。その申し出を喜んでお受けすることにし、1978年に就任しました。
ここでの任務は、発展途上国であるアフリカやアジア、ラテンアメリカ、数多くの政府と非政府組織と共に、盲目の子どもための教育プログラムや、盲目の大人のためのリハビリテーションプログラムの拡充が主な仕事でした。
1988年に、私はヘレン・ケラーが初等教育を受けた、盲人の為の学校パーキンスの国際組織、国際パーキンス盲学校の初代ディレクターに就任しました。私はここで、発展途上国における、盲ろう者やこれまで教育をほとんど受けたことがない子供のニーズのための活動に心血を注ぎました。
1993年に、フィラデルフィアのオーバーブルック盲学校から、国際プログラムの責任者にならないかと要請がありました。このプログラムは最新の技術革新を使い新しい教育とリハビリテーションの開発に焦点があてられていました。 盲目の人々の最大の課題は、印刷物へのアクセスがあります。盲人の人達は、目の見える人に読んで聞かせてもらうか、点字に翻訳されるのを長い間待つしか方法はありませんでした。しかしデジタル時代となり、急速にコンピュータが発達した1990年が新たな時代の幕開けとなりました。
そして、発展途上国の何百万、何千万の盲人にとってかなわぬ夢とおもわれていたことが、今日、日本財団(日本)やソロス財団(米国)の援助によって、実現するに至ったことは、感謝の念に堪えません。
オーバーブルック盲学校でのプログラムや、最近では国際視覚障害者教育協議会(The International Council for Education of People with Visual Impairment(ICEVI)) での仕事、そして、日本財団の奨励とサポートにより、現在も充実した活動を続けています。
これらは、開発途上地域で数千の盲人への可能性の扉を開くこととなりました。「盲人の定義を変える」。顕著なものとしては、情報技術の発達によって、これまで盲人には不可能であった大学の研究レベルにおいて、彼らは勉強をしています。 1829年のBraille読書と書記体系の開発以来、遅々として進まなかったこの分野においての発展に少しでも自分が参加できたことに、私は喜びを隠せません。
2009年7月に引退しましたが、私の人生は、相変わらず活気に充ち溢れ、これまで通りの忙しい日々です。現在、ICEVIの理事長として、発展途上国の教育システムが整っていない400万人以上の盲目の子供への活動に取り組んでいます。 これは私の命ある限り果たすべき使命であると考えます。
唯一変わったことといえば、あの高床式のベッドに座っていた盲人の女性と私の、二人の人生を大きく変えた、1964年の出会いの時のように、私はまた一人のボランティアになったということです。