社会貢献の功績
谷垣 雄三
昭和54年に産業医として西アフリカ・ニジェールに派遣された後、57年からJICAの派遣医師として19年間勤務。その後も現地で医療活動をすることを希望し現在に至る。私費を投じて病院を造り、診療し、年間千件に渡る手術を行ってきた。平成13年からは、医師仲間や出身地の高校の同級生による支援のもとで、30年もの長きにわたり医療活動を続けられている。
1969年信州大学医学部を卒業。卒後大学医学部病院に頼らず、小川赤十字病院にて整形外科、麻酔科などの研修を行い、保生園病院にて胸部外科、麻酔の研修、帯広市立病院にて一般外科を研修。1979年アフリカ・ニジェール・アガデスの国際資源社の医師として派遣され、1年6ヶ月滞在。その時の医療のない現地の住民の状態に心を動かされ、帰国後フランス語の研修を積み、1982年、ニジェール政府の要請により、JICAより単独派遣としてニジェールの首都ニアメの国立医科大学の外科教授として派遣された。
ニジェールは日本の3倍の広さがあり、人口は1500万人であるが、外科医が3人しかいないという悲惨な事情の下、定時手術毎週50名という激務をこなしてきた。しかし10日もかけてラクダに乗せられて来院する急患の大部分は手遅れで悲惨な状態という事実に対して、地方に外科医を備えた診療所を沢山作る必要がある。そのためには、1)そもそも外科医を増やす必要がある。2)小さくてもいいから地方に外科医を配置できる病院が必要である。一つの県に小さくてもいいが、一つの外科病院を作ることを提案した。たとえ外科医が生まれても全ての医師が首都ニアメに集中しているようでは意味がない。少なくとも60万人にひとつの外科病院を作るようにとニジェール厚生省に提案をした。
また、これらの困難性を自ら打破しようと思い立ち、首都より770㎞離れたテッサワに私費を投じて外科診療所を設立した。そこで、多数の患者の手術を行いながら、2名の外科希望の医師を教育し、JICAの協力で日本にこの2名を派遣し研修した。この2名は帰国後ニジェールの貴重な外科医として活躍中である。働きかけにより、現在は外科医が20名程度に増加している。
また、ニジェールの医療が先進国の援助にのみ頼る援助漬け医療であることも気がかりで、いつの日か援助に頼らない自力の医療(患者の負担を原則に)を実現しなければならないと考えてきた。そのためには、住民の負担で可能な外科治療、薬品をほとんど使わない、酸素吸入などを要しない、手術材料などもなるべく安い糸を使う。高価なガーゼではなくタオルを使う、全身麻酔を避けて局部麻酔に徹するなどの工夫により、経費の節約に勤めてきた。これまで行った手術は毎年1千例を超える。
二つの悲劇に襲われることとなった。一つはJICAより受けていた単独派遣という待遇をJICAの規則により打ち切られたことであり、さらにはもう一つは妻静子の突然の死亡である。
そんな困難に立ち向かうべく、現地においてはさらに新しい病棟を建て、新しい看護婦を雇い、新しい患者に再び手術を施し、残りの人生をニジェールの人々の命を救うために捧げるつもりである。活動には、医師の仲間によるNPO法人、OMEAAA(アジア・アフリカにおける医療教育支援機構)から750万円の寄付を毎年頂いていることを付したい。