社会貢献の功績
佐藤 エミ子
自身も難病である膠原病を抱えながら、昭和52年に稀少難病患者の会「あせび会」を設立された。難病に関する電話相談を40年にわたり受け続けると同時に、難病者の保養施設や福祉ホームの建設など難病患者の医療と 福祉の充実を目指して活動されている。
「時代の波に翻弄されて」
昭和30年から40年代は、日本は戦後復興に沸いた記録に残る時代でした。その前半を私は都心の数少ない救急指定病院の事務職員として働いていました。丸の内界隈を中心に近隣は大型ビルの建築ラッシュ。昼夜を問わず重機の音が響き、慌ただしく走る救急車のサイレン。次々に運び込まれる現場事故の怪我人の姿が、今も脳裏にあります。
復興という活気に満ちた現実社会とは裏腹に、家族の看取りもなく命を落とす地方出身の日雇い労働者の無惨な姿に、私が初めて社会の裏表に気づいた時でもありました。しかも社会全体は浮き足だったような興奮状態にあり、人々は繁栄と豊かさを求め月月火水木金金で働き、高度経済成長へと突き進んでいきました。その間私は労働力不足の職場で、泊まり込みや深夜まで働くのが当然と言う日が続き、やがて10年を過ぎた頃から、次第に身体はむしばまれ、ボロボロと崩れゆくのを感じておりました。結果、昭和41年1月、13年間働いた職場を退職、否応なく入退院を繰り返す療養生活に入ったのでした。
それから4年後、知人の医師の依頼で「患者会」設立の手伝いを半年間の約束で引き受け、軽い気持ちで関わった患者会活動が、大きな時代のうねりに巻き込まれ押し流され、気がつけば39年の歳月が経ってしまいました。
「難病」という言葉は昭和45年頃から、原因不明の奇病「金の切れ目が命の切れ目」と報道されていましたが、私は高度経済成長のひずみとして、時代が生み出した病と考えておりました。しかし、特別の志も信念もなく係わった私の患者会活動は、1つの新聞記事に端を発し、あっと言う間にあたかも全国の「難病患者の相談窓口」であるかのように広がり、一人住まいの私生活は一変しました。ある時は24時間鳴りやまぬ電話や、地方からの突然の来訪者に戸惑いながらも逃げ場はなく、降って湧いた異常な現実を受け入れるためには、人智を超えた何者かによって「与えられた運命」と考えざるを得ませんでした。
この間、どれほど様々な病気の患者・家族の不安と嘆きに耳を傾け、家族を失った喪失の悲しみに寄り添った事でしょう。そしていつしか私は、人は皆、深い孤独や悲しみ、苦しみを背負った時、その一部でも吐き出す場所と、相手が必要なことを学び、その役目が私に課せられた人生の道であり、生まれながらの運命だったのだと受け入れ、流にまかせることにしました。人生の愛別離苦は永遠の課題、今と言う時代の変化や繁栄の陰で、振り落とされたり、不運な運命のもとに苦しむ人々と共に生きる事を決意し、その一筋の道を歩んできました。だが、40年間を振り返っても、社会の変化はあまりにも大きく、人々にもたらした生活の変化は、人の心の価値観も変え、家族、地域社会など人間関係の細分化が進み、大切な物まで失ってしまった現代社会に寂しさ以上のものを感じるこの頃です。