村田 純子
障がい者が低賃金で働くことが常態化していた社会で一石を投じた、ヤマト運輸の元会長の小倉昌男氏の経営哲学に影響を受けた村田さんは、南相馬市で精神障がい者が生き生きと働ける場所、障がい者と健常者が隔てなく働ける場所を作ろうと小規模作業所「ほっと悠」を設立。作業所で大人用おむつを販売、地元の病院や競合の大手卸業者を集めて説得し販路まで獲得してしまう。このほかヤマト運輸のメール便の配達や精神病院内の売店とカフェの運営、作業所を兼ねた弁当の製造販売厨房や割烹など、次々と障がい者が働く場所を作り出し、多くのメンバー(障がい者)とスタッフを抱えるまでになる。こうした努力によりメンバーの平均労賃は37,000円と地域トップになる。
その後、東日本大震災による原発事故によって皆散り散りになり、村田さん自身も被災して寝たきりの母親を抱えながら施設は閉鎖寸前に。しかし、居場所を求めて戻ってきたメンバーのために再始動を決心。内職仕事をかき集めて郡山から南相馬へ運ぶ日々。その後相談支援センターをはじめ弁当作りの作業場や販売、区役所内の喫茶店など、不屈の精神で次々と就労先を増やし復活。赤字の作業所分は稼ぎの多い作業所で補てんし全体での運営をすることによりメンバーへの賃金を確保。障がい者が無理なく助け合って地域社会と繋がることができ、障がい者と健常者の垣根をなくすために、常に前を向いて活動している。
この度は、栄誉ある社会貢献者表彰を受賞させて頂き、心より感謝申し上げます。
私は、障がいを持ったご家族から『作業所を作って欲しい』と頼まれて、お金が無いので自宅の自分の勉強部屋から小規模作業所を作り、現在に至っております。
その当時、会社関係の方々や関係機関、障がい者施設、ハローワークの方々の集う会合があり、その時、会社の社長さん達が発した言葉が、私の決意を固く致しました。
精神の方々にとっては、就職が困難な時代で、社長さん達の口から発せられた言葉は、『薬を飲んでいるとなぁ…』『病院に通っているとなぁ…』の雇えない理由ばかりでした。
私自身、小さな頃から人を差別するのが大嫌いな性格で、その言葉を聞いた時に(よ~し!それでは、この「ほっと悠」という作業所で時給700円をやってやろうじゃないか!!)と心に刻んだのでした。そして、私自身が各所で学んだ事、思いやりを持つ・感謝する心を持つそして、ほう(報告)・れん(連絡)・そう(相談)などを伝えて、どこでも通用する「人間力」のある人づくりをしよう!と決意しました。
又、私自身の生き方、「人さまの喜ぶこと&人さまのお役に立つこと」をやり続ける「ほっと悠」を作りたい!と思ったのです。
営業はできない性格ですが、頼まれたら一生懸命やる性格、それが功を奏して毎年々頼まれて病院内の「売店&Caféほっと悠」や割烹の様な「食彩庵」そして町中広場の「SHOPほっと悠」と障がいを持つメンバーさん達の働く場ができ、東日本大震災の起こる前年には、平均工賃37,000円と県内トップに躍り出たのでした。
しかし、東日本大震災で津波ばかりでなく原発で、障がいを持ったメンバーさんは、60名が5名に、スタッフも32名が4名になってしまいました。
再度、ゼロになった所からお弁当や資源回収・メール便などメンバーさんとスタッフが一生懸命汗して、お客さまに感動して頂こう、喜んで頂こうと手を取り合って働いたお陰で、自立する為の高い工賃も得る事ができるようになりました。
これからも、「人さまの喜ぶこと&人さまのお役に立つこと」をやり続け、メンバーさんやスタッフたちが、一番の究極の幸せ ①人に愛されること②人にほめられること③人の役に立つこと④人から必要とされることを得られる「ほっと悠」を創り続けていきたいと思っております。
この度の受賞も神さまは、見ていて下さると感謝している自分です。