東日本大震災における救難活動の功績
成冨 真介
震災発生から3カ月後に南三陸町に入り、長期ボランティアを行ってきた。瓦礫撤去、支援物資の受け入れ配布など行っていたが、潜水士の資格を取得し、海中の瓦礫撤去や漁の障害物などの海中調査を行った。その後2012年5月から行方不明者の捜索に携った。さらに公立志津川病院裏の、海水で満たされた側溝(長さ40m深さ2m)の捜索を呼びかけ、町役場職員や警察、ボランティアと合同捜索を行なった。その後も作業を続け約120本の遺骨を探しだし、宮城県警に届けている。
私のボランティア活動は、震災3か月後の6月から9人で約1週間の活動で終わる予定でした。しかし、福岡県から宮城県の南三陸町に入り、初めに見た町の光景、においは今でも忘れることはありません。自分に何か出来ることはないのかずっと考えていました。
一番の支援は現地で残って必要な支援を行うことだと考え、8人が帰った後も、私だけ被災地に残ることにしました。陸上、海中のがれき撤去を主に行いました。その中で、白黒の町の光景に少しでも色を付けようと全国から支援を募り、コスモスの花も咲かせたこともありました。被災地では初めてのテント生活や車中泊も経験しました。
町の復興にはまず、大量のがれきがなくなる事が必要と思い、約9か月南三陸町で活動しましたがボランティアができること、また自分ができる支援が少なくなってきたこともあり、被災地から離れようと思いました。しかし、震災から1年経ってもいまだ行方不明者が3千人ほどいることが頭から離れず、亡くなった方を海に潜って探すという支援が私にはできるのではないかと思うようになり、潜水の資格を取り、震災翌年の5月ごろから行方不明者の捜索活動を始めました。
活動は日曜日以外ほぼ毎日行いました。海の中は視界も悪く音が聞こえることもないので、恐怖しかありませんでした。震災から1年3か月たった時に、水中で老夫婦を見つけることができました。ご遺体を引き上げる際のご遺族の方の私たちに対する感謝の言葉、ご遺体と対面した後のほっとしたような笑顔を見たとき、今後も捜索活動を続けないといけないと感じました。
捜索活動を中心に、その後1年ほど活動を続けました。数えきれないほど海に潜り、泥を掻き出しました。その中で、まだ子供が見つかっていないご遺族の方と一緒に捜索したこともありました。その方から震災から2年になろうとしているとき、最近やっと気持ちが落ち着いてきたと聞きました。私はその時に捜索活動を終わりにしようと思いました。
今も被災地ではボランティアが活動しておりますが、現地で被災者を手助けするよりも、あの震災の悲劇をどこの場所でも繰り返えさないように備えるほうが、今は大事なように感じております。
私が宮城県を離れる際、地元の方に「今度は遊びに来て」と言っていただきました。
私が支援していたつもりでしたが、逆に私のほうが地元の方たちに支えられていたと初めて気づかされました。その方たちにも表彰式典に来ていただき、全国のボランティアで知り合った方たちにも来ていただきました。
賞をいただいたのは私一人の力ではないと改めて実感しました。
貴重な経験、また一生の財産になるような賞、私のようなものが頂戴できましたことに改めて感謝いたします。