東日本大震災における救難活動の功績
髙橋 芳喜
宮城県南三陸町歌津地区で被災し、家も流されたが、同地区は支援から取り残された地区であったことから、インターネットを通じ全国に現状を発信して支援者を集めた。また地元で活動していたNPOに依頼して学習塾を開校してもらい、そこで小学生から高校生の学習を支援した。NPOの学習塾が閉鎖された後は、漁師としての仕事も始まったが、リフォームした自宅を開放して塾をボランティアで続け、現在もたくさんの子どもが通っている。
震災から、間もなく3年が経とうとしています。
自宅、船、親戚、友人、余りに多くの物を飲み込んでいった津波に今でも怒り、悲しみはおさまりません。
3・11の夜に避難所で先輩漁師が語った『元に戻るまで何年かかるかわからないぞ…』という言葉がとてもリアルだったのを覚えています。
私が住んでいる南三陸町歌津の泊浜という地区は半島のような地形になっており、震災当時はライフラインが全てストップし、陸の孤島となっていました。
外部に連絡すら儘ならない状態で情報は錯綜し、住民の不安は募るばかりでした。
『とにかく、何か動かなければ…』という焦りにも似た感情で、当時の状況を比較的に被害の少なかった地域に住む姉を経由して、全国に発信したのが私の最初の一歩だったと思います。
炊き出し、物資の受け入れ、ボランティアのマッチング、とにかくがむしゃらに動きました。
震災から3ヶ月経った頃にJapan元気塾の加藤秀視氏の基で東北復興サポートセンター『Hamanasu』を立ち上げ、被災地の現場の声を吸い上げ支援の幅をより大きく拡大しました。
その中でも私が力を入れたのが中学生や高校生が無料で通える『Hamanasu学習塾』です。
学業からは大学卒業から丸8年離れていた私に、子供たちに教えることなどできるのか?と不安もありましたが、それ以上に子供たちが子供らしく過ごせる空間が必要だという考えが強かったのだと思います。
本来ならまだ、子供と見られがちな中学生が震災を機に「大人」としてカウントされ、食べたいもの、遊び、スポーツなどを我慢させられていました。
仮設住宅は狭く、多感な時期を押し殺して暮らす中・高生に息抜きの場で気軽に立ち寄ることのできる場所は必要だと自分の経験から知っていました。
塾を始めた当初は、私も手探り状態でしたが、インターネットを通じ全国の方が知り、たくさんの支援の手を差し伸べていただきました。問題集など直接子供たちの成績につながるもの、速読教室やカメラを使ったワークショップなど子供たちが楽しんで参加できるものなど、様々な経験を積むことができました。
サポートセンターの活動拠点が封鎖した後も生徒たちの声を尊重し、自宅を開放し学習塾は続けています。これに関しては快く応援してくれた家族に感謝しています。
私も子供達もたくさんのことを経験させていただきましたが、私一人でできたものは何一つありません。考えは人それぞれでも『被災地の子供たちを応援したい』という想いは皆同じ方向を向いていました。私はその歯車の一つにすぎません。
一人の力は限られています。
100という数字があるとして100×1も1×100も同じなら、一人で100歩も100人で1歩も同じなんですよね。
だったら、きっと多くの人を巻き込んだら復興だって早く進むと思います。
私の考えは震災当時から何も変わっていません。子供たち、被災地のために私ができることは些細なことだろうけど、とにかく動こう!
最後に、これまで応援してくださった皆様、今回大変素晴らしい賞を授与してくださった社会貢献支援財団、推薦してくれた生徒に感謝の言葉を述べさせていただきたいと思います。私の小さな活動を取り上げていただき誠にありがとうございました。