東日本大震災における貢献者表彰
阿部 久
阿部 恵美
石巻市出身の夫妻で、青森市に本社を置く鮮魚卸会社を経営している。震災後3月15日から4月の中旬まで、石巻市渡波支所、同小学校など10ヵ所の避難所をはじめ、孤立した自宅にいる知人、親類などに支援物資を送り込み、自衛隊の協力が得られる前に、青森本社から重機を投入し、道路を開いた。また、津波で漁船や自動車を失った多くの漁港からの要望に応え、40隻余りの中古船を探して斡旋するなど、故郷の復興に尽力している。久氏は中途失明者である。
昼食後のコーヒータイムに突然の大地震。揺れが収まると同時に、息子のとっさの判断で、津波警報を聞く前に、妻の実家のある高台へすぐさま非難しました。
その時は、まさか自分の家が、会社が、町が津波に呑み込まれるとは思いもしませんでした。盲目の私にも、これはただ事ではないなと感じました。
翌朝、被害が甚大であることに愕然としました。余震が続く中、携帯も繋がらず、食料もなく、車中でただただ寒さに震え、なす術がありませんでした。
しかし、せっかく生かされた命、このままで終わってしまってたまるか!このまま終わらせたくはありませんでした。
とにかく、このまま石巻にいてもどうしようもないと思い、本社のある青森に行くことにしました。山形方面へ行けば携帯は通じるだろう。ガソリンも無く山の中は雪が降り続いており、三人の心が折れそうだった中、読みは当たりました。古川から鳴子へ抜け山形をめがけ車を走らせている途中、携帯の音が鳴り響き、気持ちは一変して気力がわきあがりました。
ガス欠寸前で、新庄のホテルで一泊することにしました。四日ぶりの温かい食事と暖かい部屋、温かい風呂。今までは、これが当たり前だと思っていました。当たり前だと思っていた生活が当たり前ではなくなった。涙があふれ自分たちだけが、これでよいのだろうか?自問自答し、何とかしなければいけないと思いました。
青森へ到着後、まずは思いつくまま、少しでも早く石巻へ水や食料を届けたいと思い、さまざまな物資を積み込み4tトラックと大型トラックを走らせました。やっとの苦労で衛星電話を2台確保し、石巻の状況把握や避難所との連絡に大活躍しました。
大きな避難所には、物資が届きつつありましたが、まだ物資が行き届いていない地区もあったので、家に取り残され孤立した家々を周り食料を届けました。
私にできる当たり前の事をしたと思っています。
あれから一年も過ぎたというのに復旧復興とはなんぞや!恨みを言う訳ではないが、情報がすべての世の中で、やはりどう頑張ってみても目が見えないということがハンデになり、勉強不足もありますが、皆より一歩も二歩も出遅れる為、助成金や補助金を上手に取り入れることができず、とてもやるせない気持ちでした。
しかし、こんな私に勇気を与えて下さった、天城氏はじめ財団の方々、推薦者である川野氏には、感謝の気持ちでいっぱいです。
この受賞を糧に少しでも復興の励みになるよう努力します。目は見えずとも明日に向かって前進あるのみです。ありがとうございました。