東日本大震災における貢献者表彰
復興ボランティアタスクフォース
以前から川崎市麻生区で、チェンソーやジャッキを用いての人命救助法の講習会を開いてきた。震災直後から10月10日まで山形県のNPO団体らと協力し、主に宮城県内で支援物資の寄贈や瓦礫撤去、被災地のボランティアセンターの支援などを行った。これまでも中越地震の際には、被災地に赴き、災害ボランティアのノウハウを市民に伝えてきた。
3/11その日私は、帰宅困難者であった。翌日の災害ボランティア訓練の講師の方が、宮城県を出られない、山形のNPOの仲間が山形県庁に参集した、などと情報が入ってくる。
一方、夜になっても電車再開のニュースは無い。ビルの窓からは、徒歩帰宅者の人波が見える。私はここで何を待っているのだろうか?こんなところで無為に時間を過ごしてはいけない。
決意した私は、4時間を費やし徒歩帰宅した。翌3/12、寝袋、ガソリン携行缶などを積み、念のため訓練予定場所に向かい、関係ボラセンに行き打ち合わせに参加したあと、「現地に向かいます」と告げ、希望者2人を乗せて関越道→新潟→磐越→猪苗代→米沢へと向かった。
東北道が通行止めが解除されないためと、老舗とされる神戸や新潟の災害NPOも山形に一旦立ち寄り、宮城、岩手へと向かったという追加情報も得ていたためである。
山形のNPOの一部隊として、翌日3/13(日)は宮城方面の情報収集に行くこととなった。仙台市内ではインフラ途絶による炊き出しや、買い出しのための長蛇の列があちこちにあったが、さらに東進した。
仙台東部道路を超えたところで風景が一変した。クルマが押しつぶされ、道路には泥、流木もあり行く手を阻む。避難所の医療班の方に少しお話をうかがうも、「急性期の外傷患者は少ない、残念ながらお亡くなりになっている」とのこと。国道45号でヒッチハイクする人を乗せ、多賀城へ向かう。平日日中の被災であり、学校職員も、行政職員も居るが、いつ来るかわからない救援物資を待ち続けるしかない。
電話をかけ続け、発電機のガソリンも尽きそうとのことで、携行缶の20Lを寄贈する。山形県庁に戻って報告するが、北部沿岸部に向かった隊の報告ではもっと酷い状況であった。被災したクルマからガソリンを抜き取られていたり、最後は泥の中を歩いて避難所に到達したという。
深夜、神奈川の自宅に帰宅すると、計画停電で電車が止まるとのこと。3/14(月)に出社すると欠席者が多い。無理をして出社しなくて良いとのことで、休暇をいただく。放射能の恐怖が頭をよぎったが再度北へ向かい、1週間を山形の仲間とともに過ごし、その後は、毎週末のように被災地に通った。
1年を過ぎ、現地ニーズも、ボランティア気質も大きく変わってきたように思う。
今後の災害でも私の活動は、続くであろう。経験がモノを言う災害ボランティアの世界だが、ボランティア経験者を非常勤の行政職員や、社協職員として派遣する青年海外協力隊のようなシステムができればと思う。