東日本大震災における貢献者表彰
太田 明成
陸前高田市で飲食店を経営していたが大津波で流失した。失意の中、地域のために出来る事はないかと奮い立ち、両親や兄、ツイッターなどで協力を求め「靴」を集め、震災後の3月末から4月末まで、市内のコミュニティーセンターや小規模な避難所などで計1万6千足を配布し、多くの人から喜ばれた。
「16000のありがとうを配って」
私の店「カフェフードバーわいわい」は、平成21年11月にオープンしました。営業できたのは、1年と4か月だけ。開店資金であった1000万円ほどの借金だけを残し、店は流されました。
それでも、家族が無事でいてくれたことが全てで、そのことを悲しいと感じたことはありませんでした。私よりも大変な思いをされた方々が、まわりにはたくさんいるのですから。
それは、震災から10日目ぐらいの事でした。早々に、衛生用品や衣類、暖房器具などが物資として配られる中、みんなが口にする「着のみ着のまま」始まった避難生活。…ふと思いついたのが「くつ」の必要性でした。
3月28日に自分のブログに書き、ツイッターで広め、募集期間の約2週間で全国から1000人を超える協力者を得ました。集まった「くつ」は、最終的に16000足を超えていました。
避難所の方の手を煩わせることのないよう、サイズ分けをし、運び、また持って帰る。
それを繰り返しながら、市内全域77か所の避難所をまわりました。
当時の陸前高田市は、物資の受け入れを一時的に中断していて、全国の皆さんも「どこに」「何を」支援すればいいのか?分からない状態だったと思います。
私の元に届いた2000以上の段ボール箱のほとんどに、手紙が入っていて「負けるな」「見守ってるよ」など応援メッセージもありました。こちらとしては、「ありがとう」という感謝の気持ちで一杯でした。
ブログで「太田に」「くつを」とはっきりと伝えことと、MATCHしたのだと思います。
そして、おねだりをした私も「ありがとう」であり、高田市民もまた「ありがとう」でした。
私は、橋渡しをしただけに過ぎません。全国の方々と被災地の方々と、双方を思いやる気持ちが、私を動かし、大きな活動に発展したのだと思います。
私は、皆さんへの感謝の気持ちを忘れることなく、今も活動をしています。
私がこの表彰を受けるころ、陸前高田市に一つの商店街ができているでしょう。
「商店街」=「ショッピング」ではなく、コミュニティーの場として、年齢男女を問わずいろいろなイベントを行いながら、楽しく地域の人たちと繋がれるような、場所づくりをしたいと考えています。
私たちの町が、今後どのようになるのかはまだはっきりとしていませんが、20年後の先を見据え、そのために、今何をすべきかを考え、行動していきたいと思います。
震災から1年が経過しましたが、これからも永遠に、日本国民がひとつの気持ちでいられればと願っています。