東日本大震災における貢献者表彰
金野 光晃
陸前高田市の大石地区に設置された「復興の湯」の本部長としてに運営に携わった。復興の湯は1日200名多い日は300名もの被災者が利用した。また、震災当日の地震発生直後は裏山にすぐに避難したが、体の不自由な高齢男性がトボトボと避難してくるのが見えたため、引き返して男性を肩で担ぐなどして、迫りくる津波を背に裏山に上り助かった。その後も2キロ離れた避難所まで男性に付き添うなど人命救助も行った。
このたびは、市議会議員の鵜浦昌也さまのご推薦を頂き、公益財団法人社会貢献支援財団様より、突然の表彰のご案内を頂き、驚きと喜びで身に余る光栄に存じます。
さて、3月11日午後2時46分に歴史史上最大規模のM9.0の巨大地震が発生し、その後に、市消防署の防災無線放送により大津波警報が発令されたので、我が家の裏山に避難しました。
ところが、近所の男性が我が家に歩いて来るのを発見したので、家に戻り、その男性と裏山に登ろうとしたところ、自宅から約100m手前の気仙川から津波が堤防を越えたのが見えたので、迫りくる津波を背に男性を裏山に引っ張り上げ難を逃れました。
その後に巨大津波が押し寄せ、目の前の自宅は勿論、近所の住宅がことごとく破壊、流失され、また、住宅が燃えながら流失されるのを見て、山火事が発生しなければと心配でした。
男性は、体格が良い方で糖尿病を患っており、歩くのも大変な状態でした。山へ登る途中で低血糖を起こし、身動きが出来なくなり「俺を置いて早く逃げろ」と言われましたが、男性をおいたまま逃げることはできないと思い「頑張れ」と声を掛けながら、肩に担いだり、手を引くなどして山道を越えながら、約2㎞先の高台の避難所である第一中学校に辿り着きました。その後に、助けた男性と巡りあう機会があり、涙ながらにお礼の言葉を頂きました。
避難先は、第一中学校の体育館となり、避難者が1000人以上を越えておりました。10日以上もお風呂に入ることが出来ませんでしたが、わが部落内の高台にある共和建設の高萩善夫社長が、3月下旬頃にいち早く工場内にボランティアでお風呂を設置してくださり、避難者が利用できるようになりました。
その後、第一中学校の下にある被災した、大石公民館と七夕山車車庫を、ボランティアの皆さんが瓦礫の撤去等を行っていただき、4月中旬頃に共和建設の高萩社長のご協力により、浴槽を七夕倉庫に移動して、水は、近くの湧水をパイプで引きタンクに溜めながら、お風呂の水を確保することができました。
お風呂に必要なボイラー・タオル・石鹸等は、全国各地からの支援を頂き、灯油は市役所から支給されることになり、やっとの思いで「復興の湯」を立ち上げることができました。入浴時間は、正午から午後の10時までとし、多くの被災者及びボランティアの皆さんに入浴していただき、1日平均200名多くて300名の利用があり、大変喜ばれました。
私も「復興の湯」の鬼の本部長と言われながら、公民館の中で「テントでの寝泊」をしながら、多くのボランティアの皆さんのご協力により、9月10日の「復興の湯」の解散に至るまで、本部長として孤軍奮闘してまいりました。
この間、全国各地から寄せられたご支援と多くのボランティアの皆さんのご協力に対し、深く感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
現在は、親子2人で空き家の仮住まいをしておりますが、陸前高田市の早期復興と高台への県営住宅及び市営住宅の早期建設を希望するものであります。