東日本大震災における貢献者表彰
復興の湯プロジェクト
陸前高田市で避難所に自社の建設資材を用いて仮設トイレを設置。その後震災の10日後から会社の敷地内で、建築資材を用いて被災者用の共同浴場を作った。インフラが普及しない中、朝4時から川に水を汲みに行き、ドラム缶で湯を沸かし無料で開放。1日に200~300人が利用、4月10日からは復興の湯プロジェクトを立ち上げ、大石公民館の倉庫に場所を移し、ボイラーの灯油代を市が負担し、「復興の湯」の看板を掲げ、共同浴場は全員の仮設住宅入居が完了するまで行なわれた。9月10日までにのべ45,000人以上が利用。利用者は被災者のみならず、極寒の中不明者の捜索にあたる人や復旧作業に携わる人にも提供された。風呂場は家族や知人の安否確認等、住民たちの情報交換の場でもあり、涙を流せる場所でもあった。
あの忌まわしい東日本大震災による大津波が襲来した平成23年3月11日、陸前高田市高田町の市立第一中学校には、1000人もの多くの住民が避難しました。
しかし、水道は出ないし停電という状況。学校の水洗トイレは、使用できなかった上に便器には汚物がたまり、あふれんばかりの光景でした。
有事の際など、食事は我慢できても、トイレだけは我慢できません。あたりが薄暗く、吐く息が白いほど寒いにもかかわらず、若い女性でさえ恥じらうことなく、校庭の隅で用を足していました。
その姿を見て、私は自社((有)共和建設)から木材を運び込み、夕方から応急仮設トイレの設置作業を始めました。10基のトイレが完成したのは、翌日の夜中2時ごろだったと思います。
夜が明けてから再びトイレを見に行ってみると、利用しようとする人が順番待ちをしていて、「設置して本当に良かった」と感じました。
今回の経験から、公共施設の学校などには駐輪場を設け、その屋根の下に側溝をつくっておけば災害時に側溝のふたをはずし、「応急トイレに活用できるのではないか」と思いました。
震災が発生して8日後の3月19日、会社の社員らと話をしているとき、急きょ「お風呂をつくろう」ということになり、同日午後2時ごろから自社の加工場内に「いきいきぶろ」の設置作業を始めました。
24時間ほどで完成し、翌日午後には無料の共同風呂をオープンさせました。
すると、そのうわさを聞きつけた被災者らが次々と訪れるようになりました。
それ以来、私は毎朝4時ごろ車に3本のドラム缶を積み、10分ほどかかる場所へ水を汲みに行くのが日課となりました。1.8m×3.6mの男女2つの浴槽に水をためるためには、1日に7往復ほどしなければなりませんでした。
お湯は薪を燃やして沸かしていましたが、薪がなくなってからは自社の住宅建設用木材を切り刻んで燃やすなどしました。
その後、4月11日には地元住民の協力を得ながら近くの大石公民館へお風呂を移設。「復興の湯」と名付け、男女別に縦1.2m、横2.5mの浴槽を設置しました。
お風呂は、避難所となっている体育館や公民館などでの生活で入浴できない被災者や全国各地から善意で訪れたボランティアらに無料開放。わき水をボイラーで沸かし、入浴者には支援物資のせっけんやタオルを提供しました。
とくに家族を失った被災者は、悲しみの涙を、またボランティアは、体中の汗をさっぱりと洗い流していました。
お湯を沸かすボイラー代は、市に灯油代として負担してもらい、毎日正午から午後10時まで開放。一日平均約200人、多い日は300人を超す利用がありました。
施設入口に設置した「サロン」は、薪ストーブを囲んで被災者同士、あるいはボランティアを交えて和やかに談笑するなど、お互いの絆を深め合う、社交場ともなっていました。
しかし、市内に仮設住宅整備が進むにつれ、避難所は次々と閉所。被災者が、お風呂のある仮設住宅へ引っ越したことから、灯油代の経費補助が打ち切られ、「復興の湯」は多くの人に惜しまれながら9月10日に閉鎖しました。
避難所での仮設トイレや復興の湯の設置を通し、「少しは人の役に立てたのかな」と感じております。
社会貢献支援財団様からの表彰を機に、これからも陸前高田市の復興に微力ながら尽くしていきたいと思っております。この度は、ありがとうございました。