東日本大震災における貢献者表彰
佐々木 文秀
海岸から100m程の気仙沼市魚町で経営していた診療所は震災により全壊、隣接する自宅も流失した。102歳の父を背負い、山越えをして気仙沼市役所に避難した。同市役所には約480名ほど避難者がおり、医師としての使命感から、体調不良を訴える被災者の応急処置に当たった。4月上旬まで同所に常駐する中、8日間で200体以上の検死にも立ち会った。また、小児科医であることから、親子の不安解消のため、早急な医療体制が必要と震災から40日後に仮設診療所を開設し医療の確保に当たった。
「東日本大震災を体験して」
大震災から1年が過ぎた。私にとって、最も凝縮した1年であった。あの日、とてつもなく長く大きい地震が収まり、外来に走っていくと、既に訓練通り職員が患者を避難させ、カルテや検査データを2階に運ぶ準備をしていた。
私は津波を予想し、102歳の父を自宅の2階に避難させた。しかし妻の「2階では危険」との判断により、車で高台を目指した。
数分後目にした光景は、想像を絶するものであった。海は黒く盛り上がり、大型の漁船や家屋が木の葉の様に漂っていた。よく見ると自宅や蔵は流失し、診療所の1階は外壁のみ残り、2階は辛うじて現状を維持していた。夜になると海上の油に火がつき家々も類焼し、高台も火災の危険があると考えた私は、父を背負って小山を越え、更に瓦礫とヘドロに埋め尽くされた道路を手探りで進み、市役所に避難した。凍えるような寒さの中、新聞紙を体に巻きつけ一夜を過ごした。
翌日は小さいおにぎり半分と紙コップ半分の水の配給があったが、誰一人文句も言わず、他人に分ける人もあり、日本人の気高さを見る思いだった。市役所には知人の医師が避難しており、県警から検視の依頼があったので、2人で現場に行き、既に到着していた2人の医師と共にチームを組んで、以後8日問検視業務に従事した。
広い体育館が忽ち遺体でいっぱいになると、他の体育館に移動し検視するという凄まじい日々であった。私が診ていた兄妹の小さな遺体や、多数の知人の遺体も含まれていた。
検視中は涙も出なかったが、夜になると、とめどもなく涙が流れ枕を濡らすこともあった。
また、検視の合間に避難者の健康管理に当たったが、初めは薬も何もない状況の時に、患
者さんの手を握り話をするだけで症状や血圧の改善が認められ、医の原点である手当ての意味を理解した。
町では多くの人々に声を掛けてもらい、大災害で生き残った自分の今後の生き方等諸々のことを考えた結果、診療所の再開を決心した。職員及びその家族すべて無事であったことが、私を後押ししてくれた。多数の人々の支援を受けて震災後40日の短期間で現在地に新診療所を再開できた。
今後、どこかで災害が起こった時は現地に赴き、恩返しをしたいと考えている。当医師会には大友医師会長をはじめ多くの会員が被災したにも拘わらず私と同様の仕事をしており、その代表の一人として受賞したものと考え、ありがたく頂戴する。