東日本大震災における貢献者表彰
菅野 和治
震災発生直後から、双葉郡浪江町より着の身着のまま避難して来た大量の避難者が勤務する診療所に来院した。停電、断水、燃料不足、医薬品不足の緊迫した状況の中、あらゆる方策をたてて避難者の医療、救護にあたった。現在も継続診療中。
3・11東日本大震災、僻地診療所での経験
この度は、東日本大震災後の大変厳しい状況下において苦労された、数多くの方々がおらる中、小生ごときが、受賞者の仲間入りをさせて頂きましたことには、大変恐縮しております。
当診療所は、二本松市の東部、国道459号線沿い、原発事故後避難区域となった浪江町との境界から約10㎞、原発から半径約39㎞に位置する僻地診療所です。
私は、診療所に赴任以来、約15年8ヵ月のH23.3.11東日本大震災に遭遇し、かつてしたことのない診療を体験しました。
震災後、浪江町から避難されてきた方々(二本松市に約3000人)の一部が、送迎バスで(一度に30人〜40人)診療所へ受診され、狭い待合室は混雑しました。
当院ただ一人の医療事務は、出先からの交通手段が途絶え帰宅不能となり、残る看護師2名で、受付、診察介助、調剤、会計を分担し診療を続けました。
津波で全てを失った方、原発事故による避難命令で家族ばらばらの状態で受診された方、常備薬も持たず、着の身着のまま受診された方々がおられ、お話を伺っては返す言葉も出ませんでした。
病歴聴取し、持参されたジェネリック薬を調べたり、診察時間も普段の数倍を費やしました。年度末で薬の院内在庫も少ないうえ、電話、FAXが不通のため卸との連絡が取れなかったり、ガソリン不足から配送不可との連絡があったりで、降圧剤一人3日分の処方でお帰りいただいたこともありました。
待合室のTVからは原発の水素爆発の映像が映しだされ、横目で見ながら、今後どうなるのか不安はありましたが、目前の業務をこなすのに精いっぱいで自らの避難など考える余裕すらありませんでした。
職員一同昼食抜きで診療を終えた日もあり、診療後も私はガソリンの心配から、診療所に泊まることにしました。(以後3月末まで泊まりは続きました。)診療所の周辺で食糧や着替の調達できるところはなく、スタッフや近所の方からおにぎりをいただき、しのぐことができました。
3月末になると避難所の更なる移動があり、ガソリン、電話の復旧等により、状況は改善、普段の外来診療、在宅訪問診療の日々が戻ってきました。この間1日も欠けることなく(自宅半壊のスタッフもおりましたが)頑張ってくれたスタッフには感謝です。
現在も仮設住宅や借り上げ住宅から受診される方もおり、その不自由な生活や放射線汚染の問題などで心身共に不調を訴える方もおります。長期化すると思われるこれらの問題をかかえた住民たちに微力ではありますが今後も寄り添っていきたいと思います。
菅野 和治 (二本松市岩代国民健康保険診療所)