社会貢献の功績
高山 良二
平成4年から5年に自衛官としてカンボジアのPKO(国連平和維持活動)に参加。退官後、地雷処理を円滑に行うために私財を投じて、自衛隊OBと共にNPOを平成14年に設立し、不発弾処理活動を現地で立ち上げた。平成18年にはCMACと共同して住民参加型地雷処理活動を立ち上げ、村人約100名を指導して年間約30~40ヘクタールの地雷原を安全な土地にした。更に、その土地で学校や道路の建設、井戸掘り事業などを村人とともに実施、子どもたちには日本語やパソコンを教えて、そのうち1名を日本の高校に留学させている。また、村で獲れるキャッサバ芋で焼酎を作り地場産業の促進を図るとともに、雇用創出のために日本企業3社の誘致を行った。NPO法人国際地雷処理・地域復興支援の会(IMCCD)を今年7月に設立させ、カンボジアバッタンバン州で住民と共に活動している。
1992年〜93年にかけて、カンボジアにおける国連平和維持活動(PKO活動)に自衛官として参加しました。任務を終えプノンペン空港を離陸して、機上からカンボジアの大地を見下ろしながら、「まだ、遣り残したことがある」ような心境に駆られ、「また、必ずここに戻ってこよう」と思いました。
それから10年の歳月が経ち、2002年5月、定年退官した3日後には日本のNGOの一員としてカンボジアに向かいました。プノンペンに到着後、活動立上げの調整をカンボジア政府機関のCMACと実施していましたが、2週間ほど経ったある日、突然不安定な精神状態に陥り、すぐにでも日本に帰りたいと思いました。日本に帰る決心はその時は出来ず、それ以降苦しい日々を過ごしながら活動しました。不発弾処理はまもなく開始できたものの、私の専門の地雷処理の活動が開始できる見通しは全くたちませんでした。
2004年9月、遂に精神状態が限界になり、一度帰国して精神異常を治療し、地雷処理活動が開始できる見通しを模索しようと考えました。あれほど夢にまで見たカンボジアを離れることは、辛い選択で大きな挫折感でした。1年3ヶ月が過ぎた頃、地雷処理の活動ができるチャンスが巡ってきました。私は再びカンボジアに向かいました。そして、調査などを経て2006年5月に念願の住民参加型地雷処理活動がカンボジアのバッタンバン州で開始できたのです。
ところが、2007年1月19日、余りにも悲しすぎる事故が起こりました。対戦車地雷の爆発事故で作業していた7名の隊員が帰らぬ人になったのです。この事故は、全て私の責任ですと、遺族や村の方たちに謝罪すると共に、彼等の業績をなんとしても後世に伝えたいと考え、活動を継続することにしました。
そして5年が経過した現在は、学校、道路、井戸の建設、日本語教室、日本企業の誘致、地場産業、国際交流など、地域復興支援活動にも着手し、この住民参加型の活動が内外から評価されるようになりました。
そんな折の昨年暮れ、家内が突然脳腫瘍で倒れ、一時は危篤状態になり、緊急手術を受けました。辛い選択でしたが、これまで活動してきたNGOを辞める決心をし退任しました。幸い家内は手術に成功し奇跡的な生還を果たし、現在では元気な姿に戻りつつあります。
私はこれまで10年間も活動を支えて下さった方々と相談し、再びカンボジアでの活動を再開することにし、NPO法人国際地雷処理・地域復興支援の会(IMCCD)を設立し、これまでと同じカンボジア北西部のバッタンバン州カムリエン郡というタイとの国境に接する地区で住民参加型の地雷処理活動と、地域復興支援の活動を続けています。
最終的な夢は、平和構築理念の啓発です。今回の受賞は、本当に有難くこれからの活動に大きな勇気を与えて下さったことに、心から感謝を申し上げる次第です。