社会貢献の功績
高良 道子
また保健所を退職後、名護市などで家政婦はじめ介護を担う人材教育にも尽力し、看護師、家政婦紹介所の設立やヘルパーの養成に貢献するなど、50 年以上にわたり活動が続けられている。
戦後、医療福祉もなく貧困時代に父は病気治療できず死亡した。高校生であった私は、病いで苦しむ人のために役立つ仕事をしたいと看護師の道へ進んだ。昭和 29 年看護師になりハンセン病収容所沖縄愛楽園、名護保健所、重度心身障害児施設名護療育園、看護婦家政婦紹介所、職場は変ったが看護関係の業務を 55 年間現在も継続中である。
ハンセン病は伝染力が強いと信じられ社会からの偏見で沖縄愛楽園に強制入園させられ、悲惨な生活をさせられていた。職員の服装は上下長肌着に予防衣、長くつ、ゴム手袋、帽子にマスクを着て勤務終了後は入浴をして帰宅する。完全隔離防備の時代であった。
保健師は住民の健康と幸福を守るため各市町村の駐在所へ配置され、名護保健所管内の7ヶ所の駐在所で27年間務めた。当時は結核が蔓延し、入院施設がないため、家庭療養で結核の治療と感染予防を行った。伝染病予防については、集団検診を実施し未検診者については家庭訪問指導を行った。
乳幼児、3才児健診後の要経過観察児の訪問。一般健康相談は毎週土曜日駐在所で実施、保健師はユニホーム姿で目立つため住民から常に気軽に声かけや相談を受ける存在であった。重度心身障害児については家庭で母親の看護から名護療育園の施設へ入園となった。環境の変化で症状悪化する児があり、職員の対応で困難な児は親に宿泊付添を協力依頼することもあった。障害児は嚥下困難のため食事はコミュニケーションを図りながら時間を延長して完食に力を入れた。個別にADLを把握し適切な看護をするため職員は試行錯誤の日々で精神的負担が大きかった。同62年高齢化社会に向けて厚労省許可の看護婦家政婦紹介所を設立。求職者は一般の主婦を対象に新聞チラシ、ポスター等を公民館長の協力を得て求職活動をした。厚労省の協力で求職者研修を実施し、ケアワーカーの資格を取得して看護師不足の病院や家庭へ紹介して就労させた。
介護保険制度となり家政婦はホームヘルパー2級の研修で資格を取得して家政婦とヘルパーと兼務することが出来た。今後も地域の活性のために努力していきたいと思う。
この度の栄えある社会貢献者表彰を、常陸宮殿下常陸宮妃殿下のご臨席の下で受賞できましたことを心から喜び感謝の気持で一杯であります。これまで支えて下さった皆様方に心から感謝を申し上げます。今回の受賞を機に高齢化社会のために明るく暮らせる社会を目指して、医療、看護、介護に貢献出来るように尽くして参りたいと思います。