東日本大震災における貢献者表彰
菅野 修
陸前高田市で150日以上も市のスポーツドームに避難した約200名避難者のために指導力を発揮して救援活動を行った。震災翌日には避難者を集め自己紹介し、現状を説明しおびえていた避難者のこころをほぐしながら、指定避難所ではないため、支援が望めないであろうことを説明し、自主警備や食料調達、衛生管理の3組織をつくり、避難所の運営を円滑にした。全員が仮設住宅に移動するまで避難所に寝泊まりし避難者のケアにあたった。
この度の受賞にあたり、全国の支援してくださった方々、避難所運営に協力して頂いたスタッフに心から感謝したいと思います。
さて震災当日、地震の規模から津波は来るだろうとは思いましたが、市が壊滅状態になるとは、予想もせず。お店から市施設のスポーツドーム(サンビレッジ高田)に、社員全員が避難致しました。
施設は、指定避難所になってはおりませんが高台にあり、前年の南米チリ沖地震の際にも、かなりの方々が避難されておりました。嘱託職員1名では、対応できかねていた状況も把握していたため、スタッフとして、協力も兼ね避難先としました。
当日は日中のため、かなりの人数の出入りがありました。サンビレッジからは、市街地の様子は見えないので、避難をしてきた人から、壊滅状態で戻れる状態でないことを知りました。
避難してきた人の中には、お年寄りはもとより、0歳児、身障者の方、さまざまな方が、おられました。
もとより、避難所の指定になっていない多目的スポーツ施設ですから、暖房、調理場はもちろん、アリーナに敷くブルーシートでさえありませんでした。
雪も降ってきました。役所との連絡も取れない中、避難してきた方々に手伝っていただき暖房の準備、食料、飲料の調達、避難者の名簿作成(200名位)と思いつくままスタートしました。
その間、発電機をお借りして、施設内の小部屋に暖房を入れ、子供、お年寄りに入っていただき、車のライトで室内の大鏡に反射させ明かりを灯しました。
食料は、避難してきたブロイラーさんのトラックから、飲料は、自販機メーカーさんの車から確保し、多少なりとも空腹感をしのぐことができました。
翌日、避難されている方々に、長期戦になりそうな現状や指定避難所ではないことを伝えました。したがって、鍋釜等もなく、暖房を入れると屋根の皮膜が結露して余震でスコール状態になることなど説明し、移動希望のある方は移ってもよいこと、残られた方々で警備班、調理班、掃除班、救護班等の組織を作りたいことなど話しました。(組織は、14日立上げ)その後は、連絡のつく会社の取引先、全国の友人や知人を頼りにし、調理器具、衣料、食料等々、避難所の施設の充実を図るべく、支援の依頼を致しました。
避難者の人数は、その後の出入りも含め、最終的には120名程が、いただいたドーム型テント42張りに、それぞれの家族ごとに入居しました。
また山手に、水源をみつけホース、4トンタンクを支援していただき、600メートルほど水を引き、洗濯、シャワー、風呂、水洗トイレにと利用し、避難所独自で生活ができるようになりました。
避難所内では、流失した高田松原再生を願って女子会が、一本松プロジェクト、若手男子が伝統ある七夕祭り実行委員会を発足させ、全国に情報の発信を始めるなど全員協力し家族的な雰囲気で生活しました。
8月10日最後の避難者が、仮設住宅に入居し、運営が終了いたしました。
今回の避難所運営で実感いたしたのは,「進取果敢」という言葉です。即断即決が運営の決め手でした。
現在も、支援にたくさんの方々が訪れサンビレッジには、子供達の声が響き、併設された仮設住宅の方々ともども一歩一歩、復興に向けて生活しております。
全国の皆様に衷心より感謝申し上げると共に、今後も御支援賜りますようお願いいたします。
ありがとうございました。