東日本大震災における貢献者表彰
太田 幸男
勤務先の名取市閖上の名取市サイクルスポーツセンターで被災、市の災害対策本部に赴き同対策本部のボランティアとして活動した。大震災当夜、自衛隊らとともに閖上小学校、中学校および孤立被災者の救助に向かい、翌日中に1,700名の救出を行った。13日には施設に避難していた116名を救助する手配を行った。その後5月31日まで名取市役所に宿泊し、24時間体制で災害対策に当たり、6月4日に終了するまでの間、被災者支援を行った。現在もボランティアで被災者支援を続けている。
2011.3.11 14:46 あの時から全てが変わりました。
この度の受賞にあたり大変嬉しく思っております。
私の活動そのものが、名取市災害対策本部ボランティアという通常の活動での参加ではないので、決して表に出ることではありませんでした。
しかし、私にも守るべき家族や支援すべき仲間、お世話になって来た方々を犠牲にして、名取市閖上地区の人命救助から始まり、非常に過酷で大変な状況の中、一人でも多くの命を救おうとして、また、せっかく助けた命を消すことないよう、今回の震災対応の活動に、全身全霊、全ての力を使い精力を注いで参りましたが、評価されることはありませんでした。
自分の個人的な身の回りの事が出来たのは、名取市長が市役所の市長室に寝袋で宿泊しなくなった4月28日からでした。
それ以降、夜間対処要員は輪番制になり、災害対策本部職員も初動に必要な最低人数での対応に変更になりました。徐々に市役所機能を回復させていた状況でした。
ある程度、震災対応が落ち着いたので、私の家族にもそうですが、仲間やお世話になって来た方々に対し、連絡をとり訪問もしました。しかし、今回の震災時の行動を説明しても納得いただけない現実に直面しました。連絡しても連絡を頂けない人もいらっしゃいます。今もそうです。
何故なら、震災時大変だった時に、誰も私の身近な人達を助けてあげなかったからです。
その時、私は名取市災害対策本部ボランティアとして活動していて、一生懸命名取市の被災者の方々を支援していたからです。
普通では有り得ない話なので信じてもらえないのです。
「馬の耳に念仏」の状態でした。その時、非常にショックを受けました。
被災者支援で命を削って一生懸命活動しました。100日法要の翌日に倒れました。十二指腸潰瘍になっていて血液が半分なくなっていました。入院中、今まで自分を理解してくれている人々。支えてくれている人々に理解してもらえない。そういう自分がいることを実感しました。
今日のこの席に、「最初で最後の親孝行」と言って私の母を招待いたしました。
その理由は、母も私の活動を理解してもらえなかった一人だからです。
この賞を通じ、少しでも自分の活動が身内に理解されることを期待しています。
また、今回の震災を通じて多くの事を学びました。
一つ目は信念が大切であるという事。
「誰の為にやるのか?」でした。
私は、今までお世話になった、故今井末吉・洋子夫妻。故高橋史光名取市議。故沼田喜一郎名取市議を初めとする閖上の方々とその家族の為に行動しました。
決して、自分の家族や身内のお世話になった方々に対しての活動ではなかったのです。
でも私は、私が他の地区で人助けをしているから、きっと誰かが助けてくれていると信じ行動していました。結果、支え合い助け合い、困難な状況を克服していました。
二つ目は、声を出す事。自分から率先してやってみる事。駄目ならすぐ修正する又は違う方法を考え行動する事。良かったら皆に呼び掛け協力してもらう事。
三つ目は、出来るだけ多くの人と情報を共有する事。そのために、世話役を見つける事。情報の伝達をスムーズに行く組織系統を作る事でした。
他にも色々ありますが、省略致します。
震災後、多くの支援及びそこから出会いがありそして絆が生まれました。
この場をお借りして、名取市にご支援頂きました、国内、国外全ての方々に厚くお礼申し上げます。
お陰様で早い復旧を果たせました。ただ、復興に関しては、ようやく動き出したばかりです。農業再生、企業再生等仕事の再生支援に引き続きお力を頂きたい。そうすることにより生活再建が進む事と思います。
何卒、今後ともご支援賜りますようお願い申し上げます。
名取市に対する復興の支援窓口は、微力ながら私の方でも調整いたしますので、ご相談いただければと思います。宜しくお願い申し上げます。
最後に、今回受賞者の一人として選んで頂いた審査員の方々、ご推薦いただいた森精一先生。そして、活動を共にした災害対策本部の方々、私の災害対策活動を承諾して頂いた佐々木一十郎(いそお)名取市長には心から感謝申し上げます。