東日本大震災における貢献者表彰
渥美 広実
石巻市で、船のドック中に船底で地震に遭った。津波の危険にさらされながら、家族の安否を確認するため移動する中、多くの人が避難している場所にたどり着いたが、そこで二人の子どもが津波に流され木にしがみ付いているのを見て、瓦礫や車が流れてくる中を泳いで救助した。その後、木に大人数人が捕まって救助を求めていたため、ロープをくわえてそこまで泳ぎつき、船員としてロープの結び方を熟知していたことから、頑丈に縛りつけ、それを伝って救助した。その後も古いボートを使い20名近くの人を救助し、ようやく避難所にいた妻と再会するが、帰途屋根の上で助けを求める女児を救助し、翌日父親に引き渡した。
3月11日、その日は山西造船にてドックの中だった(船の点検)。船底にいた時、激しい揺れに襲われた。海面を見ると、50〜60cmも水が引いていた。2日前の地震の時とはあきらかに違い、必ず津波が来ると直感した。幸いにもその日はたまたま駐車場ではなく、岸壁に車を止めていたので急いで飛び乗り車を走らせた。自宅に向かう途中、三回も波の危険にさらされたが、なんとか蛇田の弟の家に着いた。その時点で大街道にいる妻と孫の安否の確認がとれず、弟宅から自転車を借り、大街道方面に向かった。4時頃だったと思う。カメラのキタムラ近くの貞山堀のあたりに着いた時。我が目を疑った。あたり一面海と化していた。これ以上は行くも来るもできない。この状態では妻も孫もダメだろうとあきらめて帰ろうとした時、自転車が盗まれているのに気づいた。しかしその日は雪が降っていたため、盗まれた自転車のタイヤの跡がついていた。それをたどって走って行くと、ちょうど貞山掘の向うの松林あたりに避難していた人が大勢いた。
一人の女性にこの辺はどのあたりかと尋ねると「ちょうど釜小の裏あたり」だという。その時偶然高校の時の先輩にあった。その先輩に「あの木にすがっている子ども二人、なんとか出来ないだろうか」と言われた。
見ると目先に子どもが二人入ってきた。助けるしかないと思いベルトを持っている人にベルトを借りてズボンをおさえ、Tシャツ一枚になって水の中に入って泳いだ。ガレキ、車が流れてくるその中一人を抱き陸にあげ、もう一人も迎えに行った。二人救助して安心して陸に上がった時「助けて、助けて」と何人もの声が聞こえる。雪が降っているため、あたりは薄暗くて良く見えなかったが、車のヘッドライトを照らしてもらうと数十本ある気におとなに人がたちが何人もすがって助けを求めていた。子どもなら抱きかかえて泳げるが、大人は無理だ。「誰かロープをもっているひとはいないか。」大声で叫んだ時、近くで働いていた作業員の人がロープを持ってきてくれた。「誰か泳げる人はいないか。」と叫ぶと若い男性が「泳げる」と手をあげてくれた。その男性に向うの木まで泳いでロープを結んできてほしいと頼んだ。だがロープの結び方が悪かったため、せーので引っ張った時にロープがほどけてしまった。
これではダメだと思い。口にロープをくわえ水に飛び込んだ。船員のため一通りロープなどの結び方は知っていた。
木々にジグザグにロープを縛り、それを頼りにひとりひとり木にすがっている人を救助した。若い女性を救助しようとした時、一緒に救助していた若い男性が「おんちゃん、この人なかなか見ずに飛び込もうとしない」そう叫んだので、もう一回対岸へ向かい若い女性の体にロープをくくりつけ目つぶって飛び込むように促した。それでも動こうとしないので「このままでは死んでしまうぞ」と大声で叫ぶと女性は「おじいさんも助けて」と言った。ふと見るとそのおじいさんはすでに亡くなった様子で水中に沈んでいた。女性はおじいさんの襟首をつかんでいたが、手を振りほどき「おじいさんはあきらめろ」と手を放すように言い聞かせた。次の瞬間、岸の人たちにロープを引いてくれるよう合図した。女性が無事に岸にすくことが出来たので安心して自分も岸へ向かおうとした時、また女性の「助けて助けて」というかすかな声が聞こえてきた。
照らしていたヘッドライトの見える範囲にはその声の人を確認することが出来なかった。大声を出して「どこにいる」と聞き返した。
すると女性は「木に車が引っかかっていて、その屋根の上にいる。今にも車が沈みそう」といった。
200メートル先の大きな松の木かと見当をつけ泳ぎだしたがガレキに阻まれなかなか前へ進むことが出来ない。なんとかたどり着くと驚くことに女性三人と七カ月くらいの乳飲み子だった。この子だけでも助けたいと思ったが、自分一人では救助は無理だと思い「ボートなどが無ければたすけることはできない。必ず助けに来るから動かずじっとしていろ」と伝え急いで岸へ戻ろうとした。しかし二度三度とガレキに足をとられなかなか這い上がることが出来なかった。
このままでは自分も沈んでしまう、と何度も思った。
そんな中でも何とか岸にたどり着いた。そして岸にいた人たちに向かって「誰かボートを持っている人はいないか。ボートがないと助けることはできないんだ」と叫んだ。
すると一人の男性が持っている人を知っているということで、貸してもらうよう頼んだ。10〜15分ぐらいだと思うがその待っている時間が長く思われた。
ボートが着いて乗り込もうとした時、協力してくれた一人が、だいぶ長い時間水にはいっているのだから、あとは俺たちがやるから火にあたって暖をとれとストップをかけられた。自分自身も限界を感じ、あとは任せてその場をあとにした。
まだ妻と孫の安否の確認がとれないため次の日もまだ夜が明けぬ前に昨日の場所に行った。そこで昨夜のこわれかけているボートを必死に直しているおじさんがいた。偶然にも顔見知りだった。そのボートを応急修理して二人で釜、大街道方面に向かった。先に釜にあるおじさんの家族の安否を堪忍したが出来なかった。その後自分の妻と孫の確認のために大街道方面に向かった。自宅に着いたが二人は発見できず次の場所に着いたが、二人は発見できず次の場所に行こうとした時、隣の鉄工所の社長さんに「アパートの屋根に女の人」と子どもがいる」といわれた。見ると近所の奥さんと子どもだった。二人を屋根から降ろして救助したがボートは穴があいてきた水が来ているため、大人二人乗るのがやっとで連れて行くことが出来ない。しかたがないので、ちょうど近くで二階に避難していた人に二人を預かってもらう事にした。
昼頃、大街道小学校で避難している妻と再会した。孫はひと足先に長男が連れて行った。
ひと安心し妻をボートに乗せ、先に来た道順通り戻ろうとした。
ところが途中で「助けて助けて」と女の子のか細い声が聞こえてきた。見上げると屋根の上に女の子がいた。その脇と近くにいた女性と思われる二人は大丈夫かと呼びかけても応答はなかった。
女の子を救助に行こうとしたが、ブロック堀にあがっても高さが思った以上にあったため上ることが出来なかった。
その時、とび職風の男性が身軽に屋根に登って女の子を救助してくれた。屋根から降ろしたところで、その子の父親が自分の子であると駆け付け「自分は屋根にいる二人を何とかしなければならない。この子は釜小に行けば先生方がいるので釜小に置いて行ってほしい」といわれた。だが、ガレキで各道路がふさがっているため「釜小に寄れば日が暮れてしまう。このまま来た道を戻ってこの子は自分たちと一緒に弟宅まで連れていく」と父親に告げた。
妻と救助した女の子を蛇田方面に歩いている時に、途中で知らない女性が駆け寄ってきて「おじさん、昨日は助けてもらってありがとう。あの時最後に助けもらったのは私です」と声をかけられた。
翌日女の子は父親のもとへ帰って行った。
自分は3月11日から12日、その場の状況に遭遇し救助を求めている人を見て見ぬふりが出来なかっただけで、自分の船員の立場での経験を活かし、判断して当然やるべきことをしたまでだと思っている。
そして、あの時あの場所に居合わせた名も知らない人たちが協力してくれたことで何人かの人たちを救助できたので、その方々にも感謝しなければならないと思う。
ただ残念なことに、他にも大勢の人が助けを求めていたが、その人たちを救ってあげられなかった事、流れてきた遺体の上にパレットをのせてその上で救助活動をしたこと、今思ってもそればかりが心の残りである。
亡くなった方に心からご冥福を祈りたい。
追伸
何十人もの人に協力頂き互いに名前もわかりません。さらに個人名、会社名はふせておきますが、のちにご協力いただいたかたに偶然再会することが出来ました。彼なしには誰一人として救助できなかったと思います。
17〜18名の生きられた方々、その倍以上の助けられなかった方々、本当に心から申し訳なく思っています。
(奥様の代筆)
この度は、貢献者受賞者の賞に選考頂きまして本当にありがとうございました。
主人は、平成24年2月8日1年という長後悔に出航いたしました。私は、2歳4ヵ月になる孫と工場港に近い自宅で東日本大震災にあいました。あの時の記憶は、家の中のものが何ひとつ倒れなかった事、それしか覚えていません。多分、私の父の教えで、「地震の時は、逃げ道を確保しなさい」と言う事でサッシを開けておいたために、大きなサイレンと大津波が来るという防災無線が聞こえて来たのだと思います。警報が解除になれば家に戻れると思い、孫と犬をつれて歩いて10分位の小学校に避難しました。その時、携帯電話を持たなかったために、主人とも家族とも連絡がとれず、大事(おおごと)につながってしまいました。
主人は、海と化した自宅方面を見て、私たちを諦めたといっておりました。そこで、助けを求める子供さんや数人の方々に遭遇したそうです。
主人は、漁船員で、ベーリング海の極東の海の他、世界各地の海を航海し、危険な海を知っていました。「海へ飛び込むと衣類は重くなるのでシャツ1枚で入水する事、それからほどけないロープの結び方、これらは、救助する際に大変重要な事だった」と、船員の経験を生かし、何人かの命の手助けになれえた事それにつきると思います。
「最後の方は、自分もはい上がれずダメかもしれないと思った。」と言われたときは、自分の危険を省みず人命救助といつ大役を成し遂げた主人は、私が今まで思っていたよい偉大な人に思えました。
今回、この候補者として応募するのも本人は、「そもそも、その場にいて当たり前の事をしたまでだ」と言って遠慮していました。
そして、その場に居合わせた多くの人達の協力のもとで、これだけの人達を救助できたし、それから、もっともっと救助を待っていた人々がいたのに救えなかった事が悔しいと何度も言っておりました。
この東日本大震災を体験して思うことは、「ここまでは津波はこないだろう」という過信が大悲劇を生んだのだと思います。大きな地震が来たらすぐ高台へ逃げる事、そして、警報が解除になるまでは絶対に戻らないこと、それらを、ずっと言い伝えなければならないと思います。
最後になりますが、あれから1年、亡くなられた方々や行方不明の方々に心からご冥福をお祈り致します。