東日本大震災における貢献者表彰
磯谷 與藏
袖野 勇
故 志田 壽昭
大船渡市赤崎町の県道9号線で、車ごと津波に巻き込まれた男性を、付近に避難していた、漁師と漁協の組合員の3名がロープを投げ込み、協力して男性を車の窓から引き揚げて救助した。
磯谷 與藏
その日は確定申告のため、大船渡の市街に居りました。そこであの大地震に遭いました。今まで経験したことのない大きな揺れで一緒に申告に行った受賞者でもある袖野さんと二人、軽トラックで自宅(対岸の赤崎町外口)に急いで戻ることにしました。帰路は海岸に面した道路でしたが「まずは家へ」の思いが強く、とにかく自宅へと急ぎました。半分ぐらい走ったところで海面を見ると、既に水位が上昇しており津波が押寄せてきたことに気づきました。一刻の猶予もないと判断し、今来た道をもどり高台につながるわき道へ避難、その際も若い女性が運転する車両を先に登らせ、道路まで浸水する中その後に続きました。
車を安全なところで止め海の様子を見ていると、その波の中に首だけ出した人を見つけました。その人を助けようと近所の家からロープを借り、その家人と同乗者の袖野さんの三人で救助にあたりました。ロープを投げ、引き上げようとしましたが、ロープが絡まりその人まで届きません。ロープをほどいて再度投げました。幸いそのロープが届き三人で引き上げることが出来ました。
助けた人は、偶然にも同じ地域の人でした。ずぶ濡れだったのでロープを借りた家人より着替えを借りて三人で山を歩いて家を目指しました。車の通れる道路は津波により通行できないので、とにかく山伝いに家へ急ぎました。暗くなり辺りの様子もわからない上、山道なので迷いながらも何とか家に着きました。
しかし、電気・水道等ライフラインが遮断されていたので、地域公民館での避難を余儀なくされました。公民館では同じく避難している地域住民とともに、命拾いした幸運に感謝しながら過ごしました。
この大震災で多くの人が辛い目に遭いましたが、一年半が過ぎた今、前向きに「あとは良くなるだけ」と信じて、日々瓦礫撤去作業に汗を流しています。
今回、貴財団より表彰していただき、身に余る栄誉です。実際には私より表彰に値する救助活動をされた方は大勢おります。その方々の功績に敬服しつつ、この賞の重みをありがたく受け止めていきます。
袖野 勇
平成23年3月11日の15時40分頃、志田繁夫さんは大地震発生後、急いで軽トラックで大船渡町から赤崎町長崎の自宅へ向け帰宅途中でした。
大船渡市赤崎町永浜の県道9号線にさしかかったところで、大津波が進路方向右から襲来するのが確認されたので、直ちに停止し車外に出ようとしたところ、車ごと津波に巻き込まれました。
強烈な津波に車ごと流されようとしたところを、たまたま付近に避難していた磯谷與蔵さん、志田寿昭さん及び私の3名で、要救助者にロープを投げ込み協力し、車の窓から引き揚げ救助いたしました。
決して、一人では行動出来なかったと思いますが、今回の人命救助活動による表彰を受ける事になり、大変光栄に思っております。
故 志田 壽昭
平成23年3月11日15時40分頃、志田繁夫さんは大地震後、急いで軽トラックで大船渡町から赤崎町長崎の自宅へ向け帰宅途中でした。
大船渡市赤崎町永浜の県道9号線にさしかかったところで、大津波が進路右方向から襲来するが確認されたので、直ちに停止し車外に出ようとしたところを、車ごと津波に巻き込ました。
強烈な波に車ごと流されようとしたところを、たまたま付近に避難していた磯谷與蔵さん、袖野勇さん及び私の父の3名で、要救助者にロープを投げ込み協力し車の窓から引き揚げ、救助致しました。
社会貢献者として受賞された事を、大変光栄に思っております。
但し、非常に残念な事に、本人が受賞式に出席出来れば良かったのですが、奇しくもその震災より、丁度一年後の平成24年3月11日に生涯を閉じる事になりました。
父の、とった行動に対して称えて頂くことを、大変ありがたく思います。
父に代わって、厚く御礼申し上げます。
(記 長男 小松 新)
故 志田壽昭 様
妹 上野惠子 様より
桜の美しい季節となりました
東日本大震災から一年過ぎました。
平成23年3月11日午後2時46分、マグニチュード9.0の大地震は大津波となって大船渡に大きな爪痕を残しました。
兄は大船渡市内で大工の仕事中地震発生後、母が一人いるので自宅に向かって車ではしりました。
家に着いてすぐに、下の道路に立って「津波くっからこっちさ上がれ、早やぐ上がれ」と叫んで7台の車を自分の家の高台に上げたそうです。1台の車はそのまま走って行ってしまいました。その直後、津波が押し寄せたそうです。
津波で流されてきた軽トラックが木に引っかかり、兄は軽トラックの運転席に向かってロープを投げ、そのロープに男の人が捕まったが津波でぐるぐると巻か有れた兄は頑張って引っ張り助けたそうです。
それを見ていた母は、男の人が死ぬかと思ったそうです。
それから、そまま走って行った車は、津波が来て流され梅の木の所まで来ました。兄は「早くドアあげろ」とさけんでドアから女の人を引っ張り出して、自宅へ連れて行き、「母さん、早ぐ着替えさろ風邪ひくがら」と言ったそうです。
兄は更に、1回目の津波で家の天井まで浮かび、泥だらけで濡れた近所のおばあさんを2回目の津波がくる前に背負って自宅に連れて来たそうです。
「ばあちゃん90にもなるのに重でえなあー、おれ腰がいだぐなった」と言ったそうです。
同じく濡れて泥だらけになったおばあさんの息子も自宅来ました。
兄は4人を助けたそうです。
その後また濡れた4人の子どもたちが来て、寒い寒いと言ったので母が4人の子どもたちに毛布を1枚づつかけてあげたそうです。
それから電気も水も止まり、夜からは15〜16人でローソク避難生活が始まり、こたつで暖を取り、食事は家にあるものを食べさせたと、母が言っていました。
1番長く避難生活をした親子は15〜16日間いたと兄と母から聞きました。
その後兄は私を心配して自転車を借りて私を探しに来る途中。また津波が来てので借りた自転車を担いで大船渡市立赤崎中学校の高台に逃げたそうです。
「今日は妹を探すのを諦めよう」と山道を通って家に戻ったそうです。
翌日3月12日、また私を探しに朝6時30分に家を出たそうです。
家を出て山道を歩いて三陸鉄道も歩いて、最初はカメリアホール、大船渡病院、リアスホール、盛小学校、最後に大船渡市役所でやっと私に会うことが出来ました。
私も兄の顔を見て泣いてしまいました。兄は私の顔をみて「無事だったなあ〜ああ疲れだあ〜」と言ってその場に腰をおろしました。家から片道3時間40もかかっていたそうです。
救難活動した時の様子を兄と母から聞いて書きました。
周りの方々は「4人もの人を助けて、自分が一年後に亡くなってね〜なんと言っていいか…」と母に行ったそうです。
兄は平成24年3月11日午前8時9分、59歳で亡くなりました。