東日本大震災における貢献者表彰
名取市消防閖上分団
宮城県名取市閖上の消防分団で、当日は113人中50人程が出動し、震災発生後直ちに日頃の打ち合わせ通り地区を9に区分したグループで動き、住民避難の呼び掛けや水門閉鎖を行った。13人の団員が津波の犠牲となり、消防車8台中5台が流出したが、そのほとんどが地区を巡回中に被災した。
閖上は宮城県名取市の太平洋岸に位置しています。
被災地地区の住民は6,200人、名取市の犠牲となった死者・行方不明者は約970人であり、この地区の人がほとんどです。私はその地区で消防署副分団長をしています。
地震当日、分団員はそれぞれの仕事に就いており、113人中当地に残っていたのは50人程度と推測されます。地震発生後に直ちに日頃の打ち合わせ通り、地区を区分した9グループが動き始めました。私は自宅にいましたが、大津波警報が出ると、家に残っていた母の避難を親戚に依頼し、統括する立場で9部が担当する水門閉鎖の状況を確認に行きました。9部の団員に指示後、住民避難の呼びかけの行動に移し、各分団員も役割に合わせ同様な行動をしております。
自分の受け持ち地域である小塚原の住民に避難を呼び掛ける途中、海に近い集合住宅に寝たきりの高齢者が2名おり、その近所の人から救助を依頼され、他の団員と一緒に救助に向かいました。寝たきりの住民を布団ごと自分の車に乗せ運び、避難所である閖上小学校に向かいました。15時40分過ぎ、大津波が車の背後に迫るなか、車の渋滞に巻き込まれながらも、小学校の非常階段を駆け上った時には、津波が腰まで押し寄せてきていました。
私は他人の手を借り、非常階段を駆け上り一命を取り留めましたが、多くの団員が犠牲になりました。その数13人、地区に滞在者していた者50人中で比較すると、4人に一人が犠牲となっています。それは、消防車等で住民に避難を呼びかけることに専念したからです。住民の避難を待って自分が避難するという、自己本能みたいな行動が、多くの犠牲者を生む結果になりました。消防車8台中5台が流失していますが、ほとんどが地区を巡回中に被災したものです。
私が救助した人から言われました。「あなたが居なかったら私の命はなかった」と。
しかし、消防団だったら誰でもそのような行動をする、当たり前のことです。
震災後は、ほとんどの団員が罹災しましたので、当地区に残っていません。地区消防団の活動は、他の地区の消防団に依存していますが、先日発生した瓦礫置き場の火災では、消防団員に通報があり、遠くから駆け付け消化活動に参加しました。バラバラになっても消防団魂は皆一つです。地区での活動が再開出来る日を心待ちにしております。
長い道のりになりますが、この表彰に思いを奮い立たせ地区の復興に向けて取り組みたいと思っています。