社会貢献の功績
吉田 愛一郎
吉田 千鶴
アフリカとの貿易業で得た売上を、野生動物の保護に投じる活動などしていた。1994年密猟者の銃弾に倒れたレンジャーや部族間の抗争で親を殺された子どもたちのために、ナイロビに孤児院を建て、多くの孤児や肢体不自由児を収容した。またウガンダ北部で、少年兵や慰安婦として誘拐される子どもたちを守るためにシェルターを建設し、戦争が終結するとそこに洋服を作る職業訓練校を開設するなど東アフリカの人々のために40年近い活動を続けている。
動物好きの24歳だった私はケニアのナイロビを拠点に、時間が許す限り、あちこちに出向き野生動物を観察していました。
沢山の動物と出会い、様々な発見がありました。そして色々な世界からやってきた学者や環境活動家とも知り合いました。動物と出会い、人々と出会う内に、この楽園に見える大地に横たわる大きな問題を避けて通るわけにはいかなくなりました。それは密猟です。特に象牙の乱獲は深刻でした。密猟者は密猟で得た資金で、高性能の銃や四輪駆動車を買い、より効率的な密猟をします。
しかし対するレンジャーの装備は貧弱で、とても対抗できるものではありませんでした。装備を買おう。それには資金がいる。しかしその資金集めはケニアの人々のためにもなることでなければならない。旧大英帝国農業資本以外の農民からコーヒーや紅茶を日本で売ろう。それは今で言うフェアートレードだったと思います。しかし貿易はおろか、商売の経験すらない私には苦難の連続でした。騙されたり、商品がなくなったり、届いた貨物も横浜税関で「こんな安いはずはない」といって重加算税をとられたりして、散々な思いの連続でした。帰国後の私にはインド洋のかなたのアフリカが、だんだん遠くなってゆくのを感じました。しかし消沈してゆく私をよそに実は日本は経済発展を遂げ、世界に影響力を与える国になっていったのです。私にも注目が少しづつ集まり、講演の依頼などが舞い込むこともありました。「協力者が得られる」、そんなほのかな期待が心に芽生えてきました。自己資金と協力者の資金で、何台かの四輪駆動車が寄付されました。いろいろな装備がレンジャーに送られました。
そして皆様のおかげで、ケニアだけでなく、近隣の国々にも医薬品が届くようになりました。
そして遂に、最強にして最大の協力者が現れたのです。
それは私の母でした。母はケニアを視察するや否や、孤児院建設のプランを持ち帰ってきました。女の年寄りにそんなだいそれた事が出来る訳はない。世の中の人々はそう思いました。しかし母の言葉は人々の心を打ちました。キリスト教の教會、学校、母は我が身を顧みず全国を行脚しました。
そして遂に、ナイロビ郊外のダゴレティと呼ばれるスラムに、グリニッシュハウスという名の孤児院を建設してしまいました。母の意欲はとどまることがありません。給食プロジェクトを立ちあげました。そのご飯は煮込みだったりカレーライスだったりで、それは吉田チャクラ(ごはん)と皆は呼び、子供たちは大はしゃぎ、大人たちはそれを見て涙したものでした。その後も母は職業訓練校の設立、農業プロジェクトを成功させそのプロジェクトをアメリカのFTCという大きな組織に任せ、自らはもっと奥地のウガンダのグル地方に向かいました。ス−ダンと国境を接するグル地方は、戦禍の真っただ中で子供たちはゲリラに拐われて軍事利用されていました。母はその子達を助けるためにシェルターをつくり、自立のための職業訓練、給食を続け子供たちを守りました。
私が作ったきっかけが大きく花開いた瞬間でした。
子が親を継ぐことは当たり前ですが、親が子を継いでその成果を何倍にもした話はおかしくも珍しいと思います。
今回の身に余る栄誉は、公益社団法人銀鈴会の名誉会長久永進氏のご推挙があったからです。銀鈴会とは病気で咽喉を摘出しなければならなかった人の為の団体で、氏も40余年前喉頭がんによって咽喉をなくされた方です。しかし彼はそれにもめげず、同じ障害を持つ人々に声帯を使わない発生法を40年近くも伝授し続けた方です。私は受賞内定のご報告を受けた後、久永氏にその旨をご報告しようと氏のご自宅を訪問しました。そこで私は同氏が、丹沢山に登山したまま不帰の人となっていた事を知ることになったのです。そして内定のご報告を受けていた日が、まさに彼が入山した日だったのです。彼の偉業を語り継いで行きたく思います。