特定分野の功績
中尾 福良
昭和24年に広島県の内海町の船大工に弟子入りして以来、 和船造りを今日に受け継ぐ船大工として、打瀬船やコギ船と 呼ばれる漁船や遊覧船を製造。現在も現役で和船の修理を依 頼先に出向いて行なうなど60年以上にわたり和船の技術の 伝承のために尽くされている。
この度の栄えある社会貢献者表彰を頂くことができたのも、私を支えて下さった方々、推薦して下さった皆様方のおかげだと心から喜び感謝申し上げます。
私が船造りの弟子入りをした時は、戦後昭和二十一年の春でした。父は戦地から四年後に帰還、その時の私は、弟子入り四年目の十八歳の若者でした。
船造りのチャンスが訪れたのは私が二十四歳でした、当時、島には二十五軒もの造船所があり、私もその1社に入りましたが、仕事は途切れがちでした。漁船の大きさは、船体は5t、エンジンは十五馬力と決まっていました。木を何本も削っては、夜風呂の中で押して、スピードのテストをするなど色々と研究している時、結婚と時を同じくしたころ、私の師匠が「俺も年をとったのでお前の所で働かせてくれ」と言われ、私には師匠と一緒に働けることは、大変に心強いことでした。
それから半年後、妻の兄から「新造船を造る、今までお前が研究した事、考えている事を私の船に反映させてほしい。」と言われ、私はその言葉通り、色々とこれまでの経験から培ったことを活かすべく、とも(船尾)を丸くして波風の抵抗を無くそうとすると、父はそれには費用がかさむからと反対でした。しかし、師匠は「今お金がかかっても、二年先三年先には今の何倍にもなって帰るから、良いと思うのならやれ。」と言われ、その言葉通り、自分の意見を反映させた船を作り、進水させました。
山口県宇部市に帰るとこれが大好評で、仕事もやりやすく、大分県や福岡県からも注文が殺到するようになり、昭和四十年頃から、4人で毎年十隻の進水が二〜三年続き、これまでに作った船は約三百隻を超えました。
平成に入り木造船も少なくなったころ、広島県の帝釈峡遊覧船四隻を造らせて頂きました。定員八十人乗り三隻、百二十人乗一隻が稼働しています。
今は、木造船の修理、また無くなりつつある色々な模型作木造船、プラスチック船修理の毎日です。
色々研究し、苦労をし、気が付けば二十五軒あった造船所も、今では私の所とあと1軒になり、今まで手掛け木造和船の模型にも力を入れています。