社会貢献の功績
須藤 昭子
1974 年カナダにいた私はハイチ共和国の存在を知った。ジュバリエ独裁政権下で貧困と恐怖に暮らす人々の成人死亡第一原因が肺結核と知った時の驚き、なぜなら私は 50 年に医師になって以来、専ら日本で結核患者の世話をして、抗結核剤の出現と生活水準の向上に伴い新患発生が減少し勤務していた病院を去りカナダに来ていたからである。四国よりやや大きい国土のハイチで、レントゲンと痰検査の出来る健診車を駆使すれば結核は撲滅できるであろうと浅はかにも考えてハイチ行きを志願した。そして 76年にハイチに来た。
そこで現実を知った。80%の文盲率、住所不定者多数、郵便局があまりない国でどうして検査結果を知らせ得るであろうか。77 年に国立病院とは名ばかりの、結核患者の隔離所に任命された。薬も水もない、ベッド、カルテ台すらなかった。ハイチ人医師が二人任命されていたが来なかった。何もできないからである。最初に井戸堀り、カナダにもどって中古品のベッド、カルテ台、薬品、点滴セットなどを運んだ。
費用は教会関係の人たちに援助をお願いした。そして在ハイチ日本大使の来訪とJAICAを通じ病棟、外来棟、検査室、発電機などの設備の援助を受け、病院らしくなり、ハイチ人医師の勤務も始まった。
80年代、エイズ患者が入院者の50%もいることを確認した時の苦痛。86年後繰り返すクーデター。特に91年のクーデターで国連の経済制裁により燃料の輸入が閉ざされた時、患者をつづけて入院させなければならなかったことなど苦しい時が続き、そして昨年末よりエイズ患者の治療のためチームがハイチ人によりできあがった。
病気になるのを防ぐのに食べさせなければ、また禿山化し、森林率1.25%以下になった山に植林しなければ、毎年雨季に洪水により多くの死者、家屋、畑の食物の流失に苦しんでいる現状のなかで、私は日本で「炭は地球を救う」という国際炭焼き協会の存在を知った。木酢によって化学肥料を用いなくて作物がとれる。早速日本でそれを学び、2005年に二人のハイチ人を日本で3ヵ月実習させ、ハイチで炭を用いた植林と農業を教えはじめた。
日本で学んだ若者を中心にグループGEDDH(ハイチで長期にわたり自然環境の発展をめざすグループ)がつくられ、植林の必要性を意識化させるためラジオ放送、招聘されたところで実際に教えている。廃棄物の炭化でタドンをつくり樹木伐採を防ぐことなど将来これを本格化し、ずっと継続するには後継者の養成が必要である。そのために農業テクニックの学校をつくりたいと考え、今その土地に塀と学校の建設ができることを希望しつつ、資金集めに努力しているが、これからどんな苦労が待ち受けているのか分からない、塀のための資金集めは多難で、政府からの書類の遅滞などは苦労の種である。
受賞の言葉
この度社会貢献者としての表彰に選ばれましたことを、大変光栄にぞんじております。省みますと私はなにか内的に動かされて、その時その場でなにが貧しい人々の役くにたつか、自立させていくにはどうしたらいいのかと、そのようなことを選んできたように思います。しかしそれは決して自分ひとりに出来たことではなく、多くの人々に支えられてやってこられたものです。これからもすべきことがいっぱいあり、困難をともなっていますが続けて行きたいと思っています。