社会貢献の功績
添田 裕吉
昭和 20 年 9 月北部ルソン山岳州。骨と皮の幽鬼さながらの姿で米軍に投降捕虜となった。
前年 5 月門司港出港時の中隊員 230 名は、将校全員その他大半戦没、生存者 60余命。指揮班(本部)は上等兵の私だけになっていた。21 年 12 月名古屋上陸復員、翌年 2 月千葉稲毛の留守業務局(厚生省)に門司から 24 時間立通しのスシ詰め列車で出頭。面識も殆んど無い司令官のハンコを貰って部隊戦死者の死亡公報発出事務をやり指揮班助手の役目を果す。
以来 30 年両親妻子を抱え仕事に専念、51 年妻と二人だけになったので思い切って退職した。その頃福岡で発足した比島生還者と遺族の会(ルソン山中会)に誘われ出席。遺族の大半は息子や夫、兄の消息を探している方々であった。フィリピン日本軍戦死者52万人(生還13万人)福岡県比島戦死者一万五千名。殆んど臨時部隊や航空兵站船舶海軍等所属で戦友会部隊会には縁の無い方々ばかりで会合の都度、“尋ね人”軍歴調査依頼が続き引き受ける事になった。
退職時10冊余りの比島戦記が調査を重ねる都度次第に増え、今六畳の壁面一杯となり又回答用に集めた現地五万分の一地図も数百枚。今迄の尋ね人照会者は約千名、回答も概略の方もあれば氏名から戦没時の詳細迄判明の方もあり、今も定年退職遺児や孫さん達迄続いている。
51年退職早々旧戦場を訪ねてみた。空は抜けるように青く深紅の花が咲乱れ、行く先すべて明るいフィリピーノの笑顔があった。以来毎年ルソン各地を中心に遺族の方を主に慰霊巡拝30回人員延500名を案内した。私のツアーは参加者所属部隊がバラバラで戦没慰霊地が広く分散、連日早朝から夜迄強行軍であったが、今迄事故無く英霊の加護と感謝している。又参加者の皆さんが訪比を機にフィリピンファンとなられた模様望外の喜びである。案内後も88才となり昨年で役目終了。今後は遺児方で出来る限り続けて欲しいと願っている。
自宅の下に門司港が見える。そこには昔、軍の島や大陸に渡った二百万兵士、この港が祖国見納めとなった戦没百万兵士の足跡は何も無かった。平成12年有志数名記念碑建立を計画、市役所に相談したら「門司は大連と姉妹都市、侵略象徴の碑等もっての外」と拒絶され以来10年交渉を続け今年3月旧岸壁に“出征の碑”が完成した。歴史の語り部として残る事になり、戦争生残りの役目は終わった。思い残りは無い。
受賞の言葉
64 年前、ルソン戦場から生還。不思議に命ながらえて、思いもかけない社会貢献賞を頂き戸惑いました。人生も終末近くなり今生、最後の思い出として有難く頂きます。
式典後、写場で常陸宮妃殿下隣席となり、お言葉賜りましたが、難聴老人叩頭するばかりで恐懼、恐縮。