社会貢献の功績
竹内 龍幸
私が昭和 24 年 3 月、大学卒業学年中に特殊学校を見学する計画が学校行事の一つとして行われ参加することがあった。
終戦後間もなくのことでまだ、戦禍があちこちに見られた。どの学校にも爆弾の後がなまなましく特に小中学校の被害は甚だしく、小学校などは一クラス 60 人を越し、しかも寒中吹き荒ぶ中での複式学校が多かった。盲学校(現視覚障害支援学校)も焼尽、衛戍病院後を借りる始末であった。私立より県立に移管されて1年目であった。
盲学校全員で約 60 人、しかも小学校から高等学校、一教室が 2 人~ 5 人、多くて 10 余人が細長い教室に暖房具もなく授業を続けている姿は決して楽しいものではなかったが、明るい顔が輝いているのが印象的であった。これにひきつけられた私は、間もなくこの学校に就職した。
案外明るい学校であったが驚いたことは、点字で書かれた教科書もあまり発行されておらず、まして一般図書は皆無で辞書類はなかった。戦後5年ではまだ立ち直れないものが多かった。点字で書かれた事典・辞典は分量、価値も厖大なものになるので採算が取れないため手を出す会社がなかった。
盲学校生徒がひとりで調べられる点字図書を作ろうと志し、賛同してくれたのは生徒達であった。材料費など自費で工面し、点訳、作成にかかった。当初は点字の書き方、難語にぶつかり遅々として進まなかった。製本なども生徒に手伝ってもらい、放課後作成に当たった。
かくて10年20年…と立つ中に教室の一角に学習百科事典(中学部門)、学生の百科事典(高等部門)、他校の長崎盲の協力を得て国家試験に必要な大事典など15年がかりでやり、日本歴史、国語、社会、理科関係のもの。一般図書である徳川家康、レ・ミゼラブル、啄木歌集、アンデルセン全集なども置くことができる様になった。
一方では一般人への点字普及を志し、放課後、中学校、高等学校、大学へ日曜日を利用して校長の許可を得て出張指導を無料で行った。また市内外の成人団体へ点字クラブの結成にも尽した。
これらの事業をするにあたって先ず健康であることが条件なので手足を傷つけないこと、好きなダンス(フォーク、スクエア)を日課として行っている。おかげで風邪は一度も引かない。「一冊でも多く点字書を作り、読んでほしい」と常に念願している。現在も健康保持に気をつけながら点訳作業を続けている。
受賞の言葉
この度の受賞は、私にとって前途に 100 ワットの明かりをともされた感じであった。昭和 24 年教員として浜松盲学校(現浜松視覚特別支援学校)に奉職し、辞典の必要性を痛感した。辞典の作成について同僚に話した所、未知のことなので敬遠された。しかしそれ以来 60 年多くの方々に認められ、ここに 100 ワットの明かりがともされ闊歩することができたのである。元気に過ごさなくては。誠にありがとうございました。