Jakarta Japan Network
インドネシアの困難な状況に暮らす子どもたちを支援することを目的に、ジャカルタに駐在する日本人婦人たちが中心となり1999年に設立された。駐在員の妻たちはジャカルタの地で小さな子どもや障がいを持つ子どもを抱える母親が、道路に立って物乞いをする姿に心を痛め、生まれた国が違うだけでどうしてこんなに違うのだろうと心を痛め、夫の赴任で人が入れ替わっても、その支援はバトンタッチされ、日本に帰国後も支援を続け今年で24年を迎えた。その間にインドネシアでは、バリ島爆弾テロ・スマトラ沖地震・ジャワ島地震・ジャカルタ大洪水など数々の苦難があった。津波の被害で子どもたちが被った心の叫びを綴った体験記「Kiamat Sudah Lewat-絶望は過ぎ去った」を日本語に翻訳。置き去りにされそうな子どもたちの心の傷にも寄り添う。活動は、日本人会のメンバーだけではなく、現地NGOとも連携し、これまでに11もの支援プロジェクトを行ってきた。また日本でも帰国者らが絵本翻訳、ソロ奨学プログラム・フェアトレード・国際理解教室・インドネシア料理教室などを行っている。現地受益者から「人を思うというあなた方の行為は、地味であっても無限の波紋をつくる」と感謝の言葉が寄せられた。会の存在は会員にとってもインドネシア駐在の一つの希望になっている。
このたび、社会貢献者表彰をいただきましたこと、思いもかけないことでした。メンバー一同大変光栄に感じております。誠にありがとうございます。誰かが見てくださっていたのだということが大変な励みとなりますし、受賞者として今後も活動を続ける責任を感じております。
たまたま夫の転勤で住むことになったインドネシア・ジャカルタ。そこには路上で小銭をねだる子ども達がたくさんいました。車が交差点で止まるたびに寄ってくる子ども達、学校にはどうして行かないの?1998年、アジアの経済危機のころでした。
日本で何ら疑問に持つこともなく子育てをしていた私たちは、一市民として何かできることはないかと、現地の困難な状況に暮らす子ども達の暮らしを見に行きました。現地の様々なNGOに教えを乞いながら、訪問しました。スラムでの生活の様子、障害のある子の学校、農村地帯の小学校、農村地区の障害者支援、ストリートチルドレンの施設。
1999年にジャカルタ・ジャパン・ネットワークを結成しました。自分たちができる支援を考えました。人形劇、絵本の翻訳、奨学金、病気や障害のある子たちへの支援、医療基金、緊急支援。こんなことをしながら24年間、続けてきました。
私たちは1998年のジャカルタ暴動で緊急避難の経験があり、「私たちは外国人であり、いつ何時帰国するかもしれない」という思いで、必ず現地NGOとの連携で活動を行ってきました。そして、無理をしないで、日常生活の延長で「同じ地球市民として助け合う」を実践してきました。インドネシアでは幼児健診や親子教室は地域の婦人会が運営しています。婦人会のお母ちゃん達とプログラム終了時に、熱いお茶とおいしいインドネシア料理を食べて笑い合う、そんなお付き合いを心がけてきました。
本日もジャカルタのメンバーは、ストリートチルドレンの施設や知的障害の子どもたちの学校にキーボードと折り紙を携えて訪問し、人形劇を披露し、ダンスをいっしょに踊っています。日本のメンバーは絵本をインドネシア語に訳して、インドネシア各地の小さな子ども図書館に届けています。(出版社や作家さんから許可を得ています)そして、貧しくて口唇裂の手術が受けられない、内反足の手術が受けられない、重症のてんかん発作の子どもの医療ミルクが無い等の求めがあれば、ジャカルタメンバーが実態を確認し、日本から支援金を送っています。これからも楽しく国際協力を行っていきます。