社会貢献の功績
Mr. Augustine Azochiman Awuni
「ガーナ生まれの長岡人」と自らを称する、アウニさんは、新潟県の長岡市に在住し、社会教育家、英会話スクールの経営者、そして地元の大学の英語講師を勤めながら活動を続けている。
アウニさんは、黄熱病ワクチンの開発に身を捧げた野口英世博士や少ない資源の島国ながら短期間で戦後復興を成し遂げた日本を知るために、昭和63年にガーナから日本にやって来た。
実際に日本に住みながらさまざまな光景を目にした。その一つが子どもたちの様子であった。日本は全国どこでも誰でも教育を受けられるという世界にも稀な教育環境があるにも関わらず、自立できない子どもたちが増加している。一方ガーナでは、物質的困窮による貧しい教育環境が学校に行きたくとも行けない子どもたちの将来を閉ざしている。
貧困の中で義務教育を終えた後、独学で大学まで進み、苦難の道を歩んできたアウニさんは、ガーナだけでなく日本の将来を担う子どもたちの教育にも貢献しようと決心した。
平成6年、ガーナへ一時帰国した際に訪れた故郷プアルグ村で見たものは、ハリケーンで屋根が吹き飛ばされたまま、電気もない校舎で40度を超す炎天下で授業を受ける子どもたちであった。
再来日して12年に「プアルグ小学校建設基金」を設立。全国から集まった寄付と自らの貯蓄や借り入れを投じて、翌年コンクリートの平屋建てのプアルグ小学を建設した。さらにアウニさんの活動に共感した長岡市の不動産会社の会長からの支援をもとに、14年中学校を建設(高野スクール)した。小、中学校ともアウニさんはプアルグ村に行き建設資材を確認し、費用も半分で上がることから全て手作業で建設した。
周辺の村々からも子どもたちが学校へ来るようになり、当初は250名だった小学校の児童数は、現在約1,050人を超えている。中学生を合わせると約1,850名にもなっている。
アウニさんはハード面だけでなく、子どもたちに文房具、衣類などの支援をする一方、自宅に電気が引いてあることから、自宅を遠方から通勤する教師達の宿舎としたり、村の診療所で使う薬の保管場所として提供している。
一方長岡市が郷土の誇りとする小林虎三郎(注)を敬愛するアウニさんは、15年にプアルグ村と日本の子どもたちを支援する目的で、NPO法人「EDO」を設立した。虎三郎の「米百俵の精神」を伝えることと日本の昔のよさを見直すための「江戸」という意味があるという。
アウニさんは「ガーナの子どもたちは、困っているけどかわいそうじゃない。学校があるのに行きたくないといっている日本の子どもたちの方がかわいそう。」という。
日本の子どもたちが失いかけている力を取り戻してもらうために、「教育は家庭、学校、社会で支え、子どもの潜在能力を引き出す」という信念で学校、PTA、企業などで講演活動を行っている。新潟を中心に山形、福島、島根、大分などの各県で、子どもの教育がいかに大事かを訴え活動を続けている。
(注):小林虎三郎と米百俵の故事
小林虎三郎 1827~77(文政10~明治10)幕末・維新期の志士。江戸にて佐久間象山に学び、吉田松陰と並んで象山門下の両虎と称される。‘68(明治1)戊辰戦争には執政河井継之助と意見を異にし非戦論を唱えて難を避ける。戦後迎えられて長岡藩大参事になり、長岡復興のため殖産興業につとめ、また興学に尽力した。
米百俵の故事 戊辰戦争(1868年)で焦土と化した長岡藩に、支藩から見舞いとして百俵の米が送られてきた。窮乏を極めていた藩士は米が分配されるのを一日千秋の思いで待った。しかし、藩の大参事・小林虎三郎は、この米百俵は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして、米を売却した代金を国漢学校建設の資金に注ぎ込んだ。後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。
受賞の言葉
「教育は、学校で習ったことをすべて忘れた後に残っているもの」(アインシュタイン) つまり教育の目的は、いかに自主的に自分の能力を社会に役立てるかを第一に考えて実行できるようにするかをトレーニングすることです。 今回の受賞によって、私自身の人生の達成感と信念の再確認、そしてさらに活動を続ける勇気を与えられました。ありがとうございました。