社会貢献の功績
鎌田 十六
鎌田十六さんは、昭和20年の第二次大戦の東京の空襲当時32歳。浅草の蔵前2丁目に住んでいて、生後7ヶ月の娘(早苗)さんと十六さんの母と夫の四人暮らしていた。
空襲時、十六さんは娘さんを背に、大火と火の粉や煙で目も開けていられず、足を滑らせて川の中へ転落した。冷たい水が、刃物のように体を刺した。「助けて!子どもだけでも」と叫ぶと、誰かが荷台の上に、引っ張り上げてくれた。夫を呼ぶ声も出せず、意識が遠のいた。翌朝、人の声で気付き避難所へたどりついて、背中の娘の様子を看護婦に尋ねると、すでに亡くなっていることを告げられた。
一週間後に夫の遺体が川から見つかり、娘と一緒に火葬し、母の死亡は焼跡の灰の中から身に付けていたもので確認した。十六さんは、自分が助かったのは「背中が濡れなかったから。娘に助けられた」と今も思い続けている。
空襲から1年後、上野公園の駅前にはたくさんの戦災孤児が溢れており、国の犠牲になった子をどうして国は面倒を見ないのだろうとやるせない気持ちで一杯になった。わが子に代わって面倒を見てやりたいと、昭和21年から板橋の都立の児童養育院で大勢の子の「母」となって、70歳まで働き続けた。何度か再婚の話が持ち込まれたが、「わが子さえ守ってやれず、悲惨な死に方をした家族にも申し訳ない」とすべて断った。そして、親代わりに育てた子どもは500人以上にのぼり、今なお「お母さん」と慕われている。
95歳となった十六さんの歩んだ半生は、空襲から63年目の今年3月、小冊子「災の中、娘は背中で・・・」となり刊行された。
「わが子を背負った重みや、抱いた時の、あのぬくもりを」片時も忘れたことのない十六さんは、平和の尊さと命の大切さを心に刻み、家族を奪った戦争のことを今の人にも忘れてほしくないと戦争の語り部として活動されている。
受賞の言葉
高齢の身に夢にも思はぬ身に余る受章、喜こびを表わす術も知らず栄光は小さな体に大きく大きく漲っています。 天にも上る心地です。日々目立つようなこともなく、ひたすら手塩にかけた子供達に打ち込み、児童の成長を生き甲斐として年月を過ごしました。ご推薦下さいました多くの皆様に心よりお礼申し上げます。