社会貢献の功績
岩川 松鶴
岩川 久子
岩川夫妻は長年にわたり都内公立中学校で教職を務めていた。松鶴さんは非行生徒を指導し、久子さんは不登校生徒が通う情緒障害児学級を担当していた。夫妻は、年々増え続ける登校拒否や非行問題とそれに係る様々な事件、事故に心を痛め、学校という制約の多い環境での教育に限界を感じていた。非行や登校拒否が原因で離婚や家庭崩壊、時には自殺にまで至る社会現象が急増していた時代である。「命の灯」だけは消させたくない・・・、自分達に何かできることがあるのではないか、そんな焦りや苛立ちにも似た思いがあった。
こうした背景もあり昭和58年、夫妻揃って将来の安定と保証を投げ捨てるように20余年の教員生活に終止符を打ち、退職金や預貯金、都内の自宅を全て手放して教員仲間とスキーで訪れていた山形の蔵王を活動の場に選んだ。山荘を買い取り、子ども3人を連れて移り住み、そこで学校や社会の集団生活になじめない親元を離れた若者と共同生活を送ることにした。「蔵王いこいの里」(「いこいの里」)はこうして開設された。
コンクリートの覆われた場所で、一日数時間接するだけの教育ではなく、大自然の中での子どもたちと農作業や木工、スキー、動物の飼育などの活動を通じた密着した生活の形や場こそがその理想形なのではないか、そんな思いと強い責務からの一大決心であった。しかしそれは非常に危険な賭けでもあった。
初めての山荘業に戸惑う日々、また当時はそうした若者に対する自立支援は稀であり、地元でも彼らへの理解や知識は乏しく、「よそ者が不良を集めて商売する気か」と誹謗中傷されることもあった。
「いこいの里」では、子どもたちに基本的な生活習慣を身につけさせる所から始める。何年も学校や社会との接点も持たずにいた若者は、昼夜逆転など不規則な生活を送ってきた場合が殆どである。他人と接することを避けていた彼らと意思の疎通を図ることは至難の業であるが、彼らの心を開かせるために根気よく話しかけ、細かなことを何度も繰り返して教える。
時には無断で里を抜け出す者もあり、一晩中周囲を探し回ることも珍しくない。保護者の費用負担だけでは運営が厳しく、安定したスタッフ体制も整えられないため24時間365日休みがない。自らの年金をもその運営資金に充て、「いこいの里」の維持を図ってきた。しかし、夫妻の長年にわたるこうした苦労と努力の甲斐もあり、25年間で巣立った小学生から若者は既に500名を超える。受け入れた青少年は地元の入所者の割合は少なく、全国から訪れ、7~8割が就学や就労など自立している。
開設以来、任意の団体であった「いこいの里」は、組織の基盤などを強化するため平成20年にNPO法人「東北青少年自立援助センター」として生まれ変わった。運営も夫妻から長男の耕治さんと妻の智恵さんに受け継がれた。耕治さんは郡山市の旅行会社に勤めていたが、中学校の修学旅行の添乗員をした際に不登校の生徒が多いことに驚き、脱サラして両親の意志を継ぐことにした。智恵さんは看護師の仕事をやめて、運営に携わる。
法人化を機に、外出も難しい若者や保護者の家に相談員が出向く訪問相談や福祉施設でのボランティア体験や農業実習、地元企業でのアルバイトなどよる実践的な方法も取り入れて支援活動を続けていくという。
受賞の言葉
岩川 松鶴
教職を退いて25年経ちます。早く転職したお陰で今の仕事は停年もなくいつ迄も続けられます。のんびり海釣三昧を孫と、と願うこともありますが、苦しむ家族と青年達の爲に力を尽すのも体力脳力保持に役立ち、ひいては自分の爲と確信します。沢山の方々のご支援をいただき感謝します。
岩川 久子
会長や選考委員長の挨拶を聞きながら胸に込み上げるものがありました。父に激昂されての教職引退、非行児を集めての商売かとの罵り、しかしどの謗りにも勝る甦った若者とその家族の表情、涙でした。今後も生甲斐であると同時に終生の仕事として続けられるのは、恩師、友人達多くの人々に助けられての事と心からの感謝の思いでいっぱいです。こんな苦しくも楽しい仕事の続けられる身の幸せを噛みしめています。