社会貢献の功績
川端 千鶴子
樫山 ミユキ
1954(昭和29年)年、南米ボリビアに沖縄から戦後初めての開拓移民が送られた。'58年までに961名が入植し、ボリビア東部サンタクルス県に沖縄第1コロニア(移住地の名称)を形成して開拓を始めたが、湿地帯のため30%の土地は耕作不能だった。その後、'64年までに3,682名が加わり、第1コロニアに隣接した土地に沖縄第2コロニア、第3コロニアを形成し開拓に従事したが、その生活環境は苛酷だった。電気、水道、ガスはおろか新聞、ラジオも無く、原始林を切り倒して荒れ地を耕す毎日に彼らの心身は疲弊した。入植後10年の間には入植者の3分の2が他国に転住したり、沖縄に帰るなど相次いで入植地を去っていった。
アメリカに本部を置く宣教会が日本人開拓移民の宣教活動を行うはずであったが、日本語ができなかったため、日本のカリタス修道女会へ支援を依頼した。Sr.川端は、その求めに応じて沖縄第1コロニアで活動を始めたのは、入植10周年行事が行われた'64年だった。開拓民の家庭では、親は日本語、子どもはスペイン語しか話せず、親子の断絶が憂慮された。学校での日本語教育が不可決となり、Sr.川端他3名が日本語のほか、道徳(しつけ)・宗教・そろばんなどを分担して教えた。また広大な移住地の中に点在する各家庭を訪れて、彼らが抱える問題に耳を傾け、解決法を模索し、夜はコロニアのブロックごとの集まりに出かけての教育と相談に応じた。
異郷の地で幾多の困難に打ちひしがれた開拓民達にとって、どれほど励ましになったかはかり知れない。だが、活動の環境は厳しかった。まず、第1から第3コロニアまでの35キロメートルを結ぶ縦貫道路が完成した'69年でも、コロニア内の支線道路のぬかるみはひどかった。原始林にはびこる毒虫に刺され、薬局は100キロメートル離れたサンタクルスの町にしかなく、また郵便も町の受信箱までしか配達されず、町まではバスが1日1回、雨天の日は半日から1日、晴天でも2時間余りかかった。4年後Sr.川端はブラジルの日系移民のための仕事でサンパウロに移った。
Sr.川端の後継者として、'70年にSr.樫山が沖縄第2コロニアで活動を開始した。16年後の'86年に一端日本へ帰国するまで、生活環境の劣悪な中での活動の困難さは、Sr.川端の頃と大差なかった。電気、水道、電話の設置が終わったのは、開拓移民の入植から40年後の'94年ことである。郵便物の取り扱いや雨季の道路の泥沼化も変わらなかった。そのような中で入植者の家庭を訪問して、苛酷な労働に追われ家族以外の人と会えない寂しさの苦労話を聞き、慰め、相談にのった。学校では全クラスに日本語と宗教を手分けして教えた。またボリビア人部落の5ヵ所に婦人クラブを開き、洋裁、料理、識字教育などを行った。
'68年にサンパウロに移ったSr.川端は、日系コロニアの強い要望に応えて日本語学校と日本語の幼稚園を開いて日本語を教えるとともに、生徒達の家庭を訪問して異国にあっても、日本人としての誇りを失わず社会に貢献することを話し合った。また'81年には、親の離婚・貧困から食べ物もなく路上生活するブラジルの子供達のために養護施設も開設した。最初の10数年は公的支援もなく、職員を雇う資金もなく、Sr.川端達は死に物狂いで子供達の食物を求めて物乞までしたが、十分な食べ物を得られず、顔を見合わせ言葉を失ったこともあった。Sr.川端は、現在もその活動を続けている。
'86年に日本に帰国したSr.樫山は、'94年に再びボリビアに赴き、オガル・ファチマ孤児院で働くことになった。政府からの食費補助は半年以上も支給されず、110余名の子供達のミルクを買うお金を求めて日本の知人達に寄付を願う手紙を書き、コロニアの人々に米と卵の寄付を依頼する活動を始めたが、運営は困難を極めた。Sr.樫山は'98年にいったん日本に帰国し、'05年に再度オガル・ファチマ孤児院の仕事に戻り、現在も同院で活動を続けている。
受賞の言葉
川端 千鶴子
修道会より南米に派遣されて43年、果すべき務めを果したに過ぎないのに、この度、受賞という光栄に浴し、修道会あっての受賞ですので感謝で一杯です。
グロバリゼイション(世界を1つの大家族に)のスローガンに向け技術の開発、貿易の自由化などめざましい変動を感じさせられる反面、それに対応する人間養成が放っておかれているように感じられる近年、特にあらゆる面で見落とされがちの地域の若者たちの社会への適応、自己開発に今後も微力乍らカリタスの精神に生き、ご奉仕出来ればと念じております。
樫山 ミユキ
1970年からボリビアサンタ・クルス州奥の日系開拓移住地の人々と苦楽を共にし、その周辺の貧しいボリビア人と関わることによって人間性の豊かさにふれることができました。1994年からボリビア社会の貧困の中で両親に置き去りにされ、忘れられている110余名の乳幼児の世話をしていますが善意の人々の支えのおかげで小さい奉仕が続けられています。この賞は関わり、支えてくださった皆様の喜びであり励ましだと思っています。心より神様と皆様に感謝しています。