社会貢献の功績
小倉 みゑ
小倉さんの子供達への教育支援は国内から始まった。東京の築地でお店を経営しているところから、築地警察署の関係(法務省管轄青少年補導協会)で、群馬県にある女子少年院を視察に行った。自分の娘がここに入っていたらと思う気持ちから、入院者100人に対して初めて送ったのが「どら焼き」100個だった。その後昭和62年から6年間、お菓子や食料品そしてソックスやハンカチなども贈った。100人ぐらいと聞いたので、いつも100という数の品物を送り、一番喜ばれたのは、「豚かつ」100枚だったという。毎月コツコツためたお金100万円を院に送った時の子どもたちからのお礼の手紙は、宝として今でも持っている。
小倉さんが、ジャカルタの子供達へ教育支援を行うきっかけとなったのは、平成2年に東京のある会合で偶然、大戦の残留の元日本兵の一人であり現地で会社も経営する、福祉友の会の代表と出会ったことであった。代表は勉強のために、彼らの二世十数人を日本に連れて来ていたところであった。
福祉友の会は、終戦時何らかの形でインドネシアに残り、同国の独立戦争に参加し「英雄勲章」を与えられ、同国の国籍をもった残留の元日本兵の集まりである。彼らは戦後、異国で必死に生きて来たが、自分たちやインドネシアの子供達の教育をいかにすべきか頭を悩ませていた。
小倉さんも、つねづね子供や国の成長のためには、教育が一番大事であると思っていたところから、その代表にこの人なら自分の夢を実現してくれると思い「ミエ奨学基金」として2500万円を託した。
小倉さんは、昭和19年19歳の時にジャワ島のスラバヤの海軍施設で、3年間事務員をしていた経験を持ち、戦時下で青春を過ごしたことがあり、同地は「心のふるさと」との思いもあった。戦争が終わってから長い間、インドネシアの人々に何か恩返しをしたいと思っていた。
平成6年、この基金を元にジャカルタの中心部に日系の二世、三世や日本で就業を希望するインドネシアの若者を中心に、同国と日本の架け橋になる人材育成をするために「ミエ学園」が設立された。小倉さんが夢にまでみた学校である。学校は白いモルタル造りの3階建であった。
設立後は日本に後援会をつくり、賛同者からの寄付金と小倉さんの私費により経営を賄い、福祉友の会により運営されている。さらに小倉さんは、学校設立後毎年インドネシアの子供達に100万円の奨学金を贈り、それが返済義務のない「ミエ奨学基金」として活用され、中学、高校、大学生ら250名に支給されている。
小倉さんは「お金はすぐになくなってしまうものだが、教育は目には見えないけれど大切なもの。学校はインドネシアの明日を担う若い人達を育てる場にしたい」と語る。現在、学園は校舎の移転、カルチャーセンターの開始、高知県の明徳義塾中・高校との姉妹校の提携など活動がさらに広がっている。
受賞の言葉
この度の受賞を感謝しお礼申し上げます。この歓びを、此の世で最も尊敬する今は亡き母に捧げます。母の生きざまは貧しくとも心豊かに無償の愛に終始しました。私は母を誇りに思いこのボランティア活動を無償の愛の精神で続けます。冥土の母におそまきながら孝養が出来たと、以て銘記します。人間本来無一物無一物中無尽蔵