西垣 敬子
1993年夏、偶然に見たアフガニスタンへのソ連軍侵攻の写真展で、生々しい戦場の光景に衝撃を受けたことが運命的な出会いとなり、1994年1月に「宝塚・アフガニスタン友好協会」を結成。日本で講演会や写真展、バザールなどのイベントで資金集めをしては、アフガニスタンで①内戦中の赤ちゃんのミルク代支援、②子どもの学校用の大型テントの調達③難民テントで生活する女性たちや収入のない母子家庭のために、日本からミシン購入代金を調達して洋裁や刺しゅうを教え、完成品を買い取って日本で売る、④爆撃で足を失った子どもに義足をプレゼント、⑤タリバーンが女性への教育を禁じたため、隠れ学校の存在があったが、そこで教える教師への給料の支援を行う、⑥女子学生の寄宿舎を建設するために4年がかりで資金集めを行うなど、数多くの献身的な支援を行ってきた。
普通の主婦だった女性が危険も顧みずにこれまでの26年間で40回以上も現地を訪れ、「アフガンを第2の故郷」と思うまで心を寄せ、現地の人たちも彼女の訪問を心待ちにしている。現在は治安の悪化から現地入りが困難だが、今後も日本にいてできる限りの支援を行い、渡航できるようになれば現地の土を踏むつもりだという。
第54回社会貢献者表彰式典にお招きを賜りまして誠に有り難うございました。前日の懇談会では、いくつかの団体の活動紹介の映像を拝見して、心打たれました。
1994年、59歳で始めたアフガニスタン支援は、一介の家庭の主婦にとりまして誠に厳しいものでありました。生活も文化も宗教も全く異なる国に何の経験もない私は飛び込みました。途方に暮れる様な出来事ばかり起きました。
しかし私が活動をストップすることなく続けることが出来ましたのは、やはり、そこで出会った人々との出会いが素敵だったからです。貧しくても誇りを失わず、親を大切にし、長老を敬い、とくに母親を大切にし、家族を愛する。女性は一人で外を歩けず、顔を覆う衣装をまとって男性の家族と出かける。夜は危険で絶対に外は歩けない。そんな国に生きる人々ですが、時には日本の何不自由なく暮らしている人たちよりずっと幸せそうに見えました。
私は帰るとすぐに現地での様子を写真で紹介、支援金を募りました。毎年支援金を懐に現地へ向かいました。国内避難民キャンプで戦争未亡人たちへ30台のミシンを贈ってテントの洋裁教室や刺繍教室を開きました。タリバーン時代には髭だらけのタリバーンが町中を歩き、女性は学校へ行くことも、仕事に行くことも禁じられました。規律に反すると、町中で公開処刑が行われました。それでも私は毎年2回以上この国に出かけました。私が60歳を超えていることで、タリバーンは彼らの母親より年上の私を丁重に扱ってくれたのです。
そしてあの9,11の同時多発テロでアメリカの空爆を受け、タリバーン政権は崩壊、20数年振りにアフガニスタンに平和が訪れました。5年間の空白を経て女子は学校に戻り、女性教師も職場に戻りました。隣国に逃げていた数百万人の難民も戻って来ました。
私は大学に女子トイレや女子寮を建設。12年以上経った今でも新学期になると「今年も女子寮満杯」と報告がインターネットで届きます。この国は教育費が全て無料なのですが大学まで行く女子はほんの僅かです。
政府やその他の公的な寄付は一切頂かず、純粋に女性団体や一般の人たちからの寄付で賄いました。これは私の誇りでもあります。
現在、アフガン国内にはタリバーンが復活、そこへISも加わってテロが頻発し、危険で入れません。コロナ禍が加わって人々はより苦しんでおります。
今回、この賞を頂いたことで今後も一層努力して女性支援を続ける所存でございます。
宝塚・アフガニスタン友好協会
代表 西垣 敬子