瀧谷 昇
JICAの前身である海外技術協力事業団(OTCA)が実施したコロンボ計画により、1974年25歳の時に勤務先の義肢製造の会社から1年間アフガニスタンに義肢作りの指導教官として派遣された。帰国後、1980年に株式会社奈良義肢を設立。同国へ刺繍糸を贈る活動をしている西垣敬子さんの誘いで、孤児院の足のない子どもたちに義足を制作するために26年ぶりに同国を訪れたことを契機に、2002年から「アフガニスタン義肢装具支援の会」として活動を開始した。
現地で一度に20人分ほどの「型取り」を行って、日本で制作し、現地を訪れ「装着」作業と次の「型取り」を行う。一人ひとりのカルテを作成し、成長に合わせてメンテナンスをする。これまでに約230人に渡すことが出来た。
2014年頃から情勢によりビザ発給の許可が下りず、完成した義足5名分を届けることができていない。現在会としての活動は終了しているが、個人で活動の再開を模索している。
この度は、栄誉ある社会貢献者表彰を賜り感謝に絶えません。
この賞にふさわしいか自問自答しています
アフガニスタンで義足支援の活動を始めるきっかけは、私個人の家庭環境が無縁ではありませんでした。幼い頃両親と死別し養護施設で育った私には家庭を知らずに大人になり、義肢装具と言う天職に出逢いました。そしてOTCA(国際援助機構)が進めるColombo計画(中央アジア医療援助)に参加して義足の製作技術指導をするため、首都カブールで1年間を過ごしました。
平和な時代でしたが貧困とイスラムの(身障者になるのは因果応報だといった考え方)慣習で病院には裕福な人しか来られないのです。日本でも戦前には同じ様な状況であったと聞いています。
この義足の製作技術指導は実のところ、帰国する頃にようやく援助物資(機械や材料3トン)が届き、任期は終わってしまいました。
ただ、アフガニスタンの人々の暮らしには感動を覚えました。同僚たちは自宅に何度も異邦人の私を暖かく招きいれ、アフガニスタン料理をご馳走してくれました、大家族で暮らす彼らを見て、「家族の為に働くのだ」と、技術を教える代わりに人生を教わりました。
悔しさと、人生を教わった感謝だけが残り「いつか」は恩を返したいと思っていましたが、機会じゃ突然巡って来ました。宝塚アフガニスタン友好協会を主宰されている西垣啓子さんから、カブール孤児の義足製作を依頼され、ゴールデンウィークを使って26年振りにカブールに帰ることができました。 かつての美しい高原の国際都市の面影はありませんが、自分の気持ちがはっきり判り、ボランティアを始めるなら今だと、その決心はシニアボランティア(他力本願JICA頼み)で果たすと考えていたこと自体間違いであると気付かされました。
同時多発テロがありタリバン政権が崩壊して、アフガニスタン義肢装具支援の会を発足後様々人から資金援助を受けて15年間活動ができたのは、製作ボランティア(義肢装具士養成校生徒の若者)、義足をトランクに詰めて運んで頂いた同行ボランティア、義足部品の提供して頂いた義肢装具の同業者、コサージュの販売益を提供してくださった宗教家や主婦の集まりの皆様のおかげです。
現在は治安状況が悪くなり現地訪問が叶いませんが、アメリカ、アフガニスタン政府、そしてタリバンの3者の協議が実現するニュースも良い方向に向かっています。
最後にこの表彰に恥じぬ様、活動再開に向けて頑張りたいと思います。