東日本大震災における貢献者表彰
葛 但寛
気仙沼市仲町で診療所を経営していたが、震災で自宅と共に全壊、流失し、避難先のビルでは火災が発生して一時孤立状態となった。その後、気仙沼高校(避難者約300名)に避難し、自身も被災者であるが4月中旬まで同所に常駐し被災者や地域住民の治療、健康管理に当たり災害時医療の確保に尽力した。また、市内の特養老人ホームの内、甚大な被害を受けた1件の入所者を安全な施設に搬送診療したり、在宅利用者の受入などにも尽くした。
あの日、大きな揺れの後、迎えの家人を松老婦人が一人、しかしまっても来ずさすがにまずいと一緒に病院を出る事にした。しかし時すでに遅く町の中は静まり返っていた。向にあった会館の方が耐震の建物だと誘って下さり、皆でお世話になる事をなった。先に避難していた方達も居り挨拶して二階に上がった時、窓から大型バスや家が流れるのが見え、病院はすでに流失、何が起こっているのかと映画を見ているよう様でした。二階にも暗黒色のドロ水が入り畳が浮き、皆でより高い祭壇に登り何を逃れました。水が少しひいた後、皆寄り添い壊れた壁の断熱材で寒さをしのぎました。夜には火のついたガレキが流れては引き、隣の家々は燃え、恐怖の一夜でした。足の痛い老人、退院したばかりの方も居り、皆で励まし協力して過ごしました。
まる一日して自衛隊の救援を受け、ひざ程までひいた泥とガレキの山を残し、やっとの思いで脱出、しかし一昨年から悪化していた背椎管狭窄症が見事にひどくなり一晩市立病院にお世話になりました。その間に聴診器、薬、インスリン等を卸店を通じ集めました。
十八日より、家から一番近い気仙沼高校で具合の悪い方、高血圧をはじめとする生活習慣病等の診察に当たった。持っている老人施設の事もあり緊張が続きました。仕方のない事とは言え、避難所の食事は糖質に偏りがちで、糖尿病悪化の為、準備したインスリンはすぐ底をつき、日本糖尿病学会に連絡して補充した。私が高校に居る事を知り、いつもの患者さん達がやって来る様になり、新患は東京、富山等の救援隊にお願いし、普段の患者さんへの対応が多くなってしまった。救援隊の皆さんは熱意にあふれた方々ばかりで、三日程のサイクルで顔ぶれが変わるので名残惜しい雰囲気でした。
そんな訳でとにかく医院を再開せねばと強く思い、物件探し、修復工事、物品調達を急いで買い、4月18日再開となりました。
自分が出来る事当然の事を行っただけなので、最初、表彰は辞退と思いましたが、結局お受けする事に致しました。この震災で私も少し素直になったという事でしょうか。
多くの方々からの御支援、心から感謝しております。