東日本大震災における貢献者表彰
岩崎 順一
安住 紀人
北田 駿
横山 優士
遠藤 新悟
柔道整復師の研修のために訪れていた陸前高田市で震災に遭遇し、八坂神社の本丸公園に避難した全身ずぶ濡れになった避難してきた人たちのために火を焚いて暖を取らせたことから始まり、避難所探しをして、公園に避難してきた人を2ヵ所の避難所に誘導した。その際、避難所まで1km近い山道を、高齢者を背負ったり、荷物を代わりに運ぶなどして移動を手伝った。また、神社に運び込まれていた重い布団を何度も往復して避難所へ運びこんだり、燃え上がっていた火に硬い地面を掘って土をかけて鎮火して、火災の発生を防ぐなどした。
岩崎 順一「手助け出来た喜び」
3月11日、午後の診断が始まり間もない時であった。そこには15.6人の患者さんがいつものように皆で話が弾んでいる時だった。
突然、今まで経験した事のない、それがいつまでも止まらない、大きな地震だった。大船渡から来ている漁師さんの鈴木さんが、真剣な顔で「大きな津波が来るぞ」と言って、急いで外へ出て行った。
それを聞いた院長の父は患者さんに「もう今日は帰って下さい」と大きな声で叫んだ。
自分と一緒に働く北田君と二人は自宅を見てきて来いと言われ急いで行ってみると、タンスはひっくり返っているは、食器棚もめちゃくちゃだった。
しばらくすると、友人が大声で「順一、津波がきたぞ!!早く逃げろ」と血相を変えて走ってきたので、自分も逃げた。
避難先は子供のころから遊びまわった自宅から、少し離れた裏山の本丸公園であった。
200人近い人が集まっていたが、多くの人々は口数も少なく恐怖に震え、唖然とした様子が目についた。
全身ずぶぬれになって下の方から登ってくる人もいた。暖をとらせるために火を焚こうと我々5人は指示を受け枯葉や木を集め火を付けたがなかなか燃え上がらない。燃え上がるのに随分時間がかかった。皆が暖をとるために三か所に火をつけたが当日の寒さはいちだんと厳しく、大津波から時間が経つにつれ辺りは暗くなり、雪がちらつき始めてきた。
その時、父は山へ集まっていた人たちに「もうこれ以上ここに居てもしょうがない、避難所へ行こう」と声をかけ皆を立ちあがらせ細い山道を歩き始めた。横山君はお年寄りを休みながらとはいえ最後まで背負ってくれ、また我々は荷物を持つなど助け合って歩いた事は今でも忘れられない。避難所へ送り届けた後、すぐに焚火をした所へ戻り太い木についた火を消す作業が始まった。
水もなく、土を掘って燃え上がる火にかける作業はけして楽ではなく、大変な時間がかかり、すべて消し止めるころには辺りは随分暗くなってきた。下の民家から運ばれた布団をお年寄りの待つ避難所へ運んだが、今の布団とは違い、随分と重かったと父は話していた。
それから数日後、ボランティアで本業の治療を行うために避難所に行った時だった。患者に「あの時は助けて頂いてありがとう」と多くの人から声をかけられたときに思った事は何も特別な事をしたわけではないのにと少し照れくさい気もした。
今回、社会貢献支援財団様へ推薦したとは聞いてはいたが、まさか我々がこのような表彰を受けるとは思ってもみない事であった。表彰を頂けるにあたり改めて思う事は、今後は多少なりとも自分たちが世の中の為にできる事があるとすれば、率先してやる事の大切さを誘導作業を通じ知る事も出来ました。
そして自分はこのような大々的な表彰式に出席できる事に驚いています。
最後に一言お礼を申し述べさせて頂きます。
本当にありがとうございます。
安住 紀人 東日本大震災での経験
この度は素晴らしい賞をいただきまして、誠にありがとうございます。
私個人として、受賞という実感は殆どといって良いほどありません。救難活動としても、その時その場で出来るごく当たり前のことを、漠然とこなしただけに過ぎません。その行動に対して評価をし、表彰して頂くこととなり正直、恐縮をしています。
震災当日は、間一髪で住まいの裏山にある高台に避難したのですが、避難をしてきた方々の殆どが、着の身着のままでおられました。
雪も降り始め暗くなるにつれ、冷え込みも増し、集まった方々の暖を取るために枯れ枝等を集めたりしたのが、救難活動の始まりでした。
その後は、ご年配や体の不自由な方、津波でずぶ濡れになった方に手を貸したり、下から上がってきた布団や毛布等を運んだり。現状把握の為に情報収集に走り、別の避難所までの経路を確認した後に誘導、焚火の後始末、全員が避難したことを確認する等、山道を何度も駆け回っていました。
避難した山に誰もいなくなった後は、既に日が陰ってきておりましたが、残された布団を二ヵ所の避難所まで車をお借りして、運び込んだりもしました。
避難された方々の中には、自分達と年齢がそう変わらないであろうという方も結構おりましたが、声を掛けても手伝ってくれた方が殆どいなかったことは、残念でしかたありませんでした。
現在は、院長先生に再びお声をかけていただきまして、陸前高田市の隣町である住田町に残っておりました分院にて、仕事を続けております。
整骨院の再開当初は、院長先生と共にボランティア活動で避難所をいくつも回って何人も治療を行なったりもしました。その際に、色々な方々に感謝の言葉をいただいたことは、一生忘れないと思います。
また整骨院に来院して下さった昔の患者様や避難をともにした患者様にも、「あの時はありがとう」等とお声をかけていただくことも、度々ありました。今の自分にとって、それは大きな励みとなっております。
今後は、院長先生の下で学んだことは勿論ですが、震災で経験したことや学んだことも後世に伝えつつ、全ての経験を基盤にして、将来は自力で開業できればと思っております。
その折には、全国各地からご支援頂いたことや、今回の表彰に報いるためにも、何かしらの形で少しずつでも、社会に恩返しが出来ていければと思っております。
北田 駿
未曾有の東日本大震災から早一年。当時の様子は、今でも鮮明に記憶に残っています。
町はパニックになり、道路は、非難する人や子供の迎えに行く車等で渋滞。人々もどこに非難すればいいのか、どう行動すればいいのか分からない状況でした。
津波が来てからは、もう訳が分かりませんでした。いつも暮らしていた場所は、水でなにも見えなくなり、水につかって震えている人もいれば、歩けずに座っている老人の方もいました。
とりあえず、濡れた人の服を乾かし暖をとるために、火を焚くことになりました。
しかしながら、みんな自分のことで精一杯なのか動きが悪く、まとまりがなかったように感じます。
私達スタッフは、日頃から岩崎先生の指導の下で働いていますので、落ち着いて行動出来ましたし、当たり前のことをしただけと感じています。ただ、周りの人よりも気づいて行動出来たのは、普段から先生と生活を共にしていたので、見本となる師が近くにいたおかげです。
陸前高田市にいて被災はしましたが、人間として大きく成長することができました。それが、今回表彰という、形につながったのだと思います。本当に感謝しています。
新しい出会いも、たくさんありました。柔道を通じて、新しい職場では、院長をはじめ柔道関係者、子供達、そして患者さん方と出会うことができました。仕事をやらせてもらいながら、大好きな柔道も出来、指導も出来る。「本当に恵まれているんだ」と感謝する毎日です。これを当たり前だと思わないように、いつか恩返しが出来るようにと、日々精進し、仕事に柔道に全力で取り組んで行きたいと思います。
あの当時は、子供たちの安否や今後のことも含め不安はありましたが、これから生きていく上で、大切なことを改めて思い知らされたいい経験になりました。
これからは、犠牲になられた方たちの分も心にとどめ、感謝の気持ちを忘れず毎日を全力で生きて行きたいと思います。
今回はこのような賞をいただきまして、財団の関係者の皆様、そして推薦してくださった岩崎先生には、心から感謝をしております。ありがとうございました。
横山 優士
昨年の3月11日、東日本大震災が起こりました。私は柔道整復師の修行のため、岩手県陸前高田市の岩崎健二先生の整骨院に勤めていて地震発生時も診療中でした。患者さんもおりましたが全員帰して私たち従業員も先生の指示のもと高台へ避難することとなりました。
避難し大高台で津波の光景を目の当たりにしましたが、雪もちらつき始めこのままでは大変だということで避難所への移動を始めました。しかし移動する足もとは人一人がやっと通れるような細い道で高台にいた方々の中には高齢の方も多くなかなか歩くのが困難な方もいました。そんな中、先生にあるおばあさんを背負って避難してくれということで、おばあさんと背中にかつぎ、服でしばりつけて避難所へ向かうこととしました。私は普段、柔道の稽古をしたりトレーニングをしたりして体力には自信があったのでそんなに大変なことではないと思っていたのですが、いかんせんとても高齢な方(後で聞いた話では90歳を超えていたとか)でしたので、私の首元に回した腕を組み続ける力もなく私の背中をずるずると下がっていく体を途中何度も先生や一緒に働いていた方に上げてもらい私は体をまっすぐにできないまま何十分と歩き避難所へつきました。そこからは来た道を戻り、道の誘導やまた別の高齢者の方に肩をかしたりして全員の避難を確認して後、今度は別の避難所からの布団の移動や電気もつかないので薪を炊いて暖をとったりしました。
今回の受賞に関しましては、私としてはあのような状況下で若い力を役立てようという思いしかなかったので大変光栄に感じております。
私は現在、地元の秋田に戻り実家で父と共に柔道整復師として日々、過ごしております。
秋田は震災の影響をほとんど受けていないですが、被災地では復興までまだまだ長い道のりだと思います。被災地に自分自身できることがあれば何でもしていきたいと思いますし、何よりこれから陸前高田市で過ごした成果をこれからの仕事や生活にいかしていくことが恩返しになると思うので、第二の故郷、陸前高田市を思い続け日々を過ごしていきたいと思います。
遠藤 新悟 追憶の3・11
東日本大震災から、早くも一年が経過をした。しかし、陸前高田市の街並みは、未だに瓦礫は山積みで、残った建物は廃墟であり、無残な光景である。漆黒の大津波は、街や人々に深い爪痕と傷を残した。
私たちは、砂煙が舞い上がる中で、奥の方から建物が倒壊していく音と共に走り、高台の神社へと階段を駆け上がる事ができた。それは、まるで映画の1シーンの様な逃げ方で本当に良く助かったといえる。もはや、階段の半分は水で濡れ、瓦礫により降りることは許されなかった。
災難は重なり、雪は降り始め、気温は下がり、体力を消耗させた。人々の中には、ずぶ濡れになった方もいれば、薄着の方や高齢者がおり、暖をとるために、薪になる木や流れ着いた瓦礫を集め、家の中から廃材や野宿に備えて新しい毛布や布団を運んだ。
岩崎先生に呼ばれ、「神社に抜ける山道がある」と言われた。その道が通れると判り、私はその道を抜けた所で、高齢者は近場の公民館へ、歩ける者は高田第一中学校へと誘導した。
また、歩けない高齢者には横山先生と私とで一緒におぶり、両脇から補助して、無我夢中で公民館まで走り届けた。その方々に感謝の言葉を頂き、微力ながらも力になれたことを実感できた。
大震災による漆黒の大津波という二度と経験したくない貴重な経験をした事により、私の心は精神的にも傷ができた。それは、大津波が迫る恐怖は後々から覚え、亡くなられた方々を思うと、言葉に出来ない悲しみが、込み上げてくる毎日である。
この生き延びることのできた命を、第二の人生と考えて、これからも人のためになるように歩んでいきたい。それが自分なりの鎮魂である。
そして、最後になるが、私を生んでくれた親、兄弟、友人、同僚に感謝する。
特に、東日本大震災における貢献者表彰に推薦していただいた院長岩崎健二先生に本当に感謝する。
岩崎先生は、あの孤立した場所から先頭に立ち、的確な指示のおかげで野宿を切り抜けた。そして、私たちも良い形で行動でき、人々を避難させることができた。これは岩崎先生の多少なりとも社会に貢献しようと言う言葉が、私たちにも受け継がれ、実行できたと確信した。
私は、貢献者表彰受賞に選ばれた事は、光栄であrり、感謝の気持ちでいっぱいである。
本当にありがとうございました。