社会貢献の功績
根岸 美智子
1974年に所属する修道会からアフリカに派遣されて以来、36年にわたり活動を続けている。ナイジェリアからシエラレオネに移り、ルンサという町のOLG(Our Lady of Guadalupe)中学で責任者として勤務。98年に激化した内戦の中、反乱兵に捕まり殺されかけるが奇跡的に助かり、一時国外に脱出。02年に戻り、空爆で破壊されていた学校の再建に努めた。再び中学校を作り、現在は見放されたり、学校にも行けなかった女性などの職業センターの校長として活動し、生徒たちの自立をサポートしている。
西アフリカの片隅にて
私は、単なるアフリカ宣教女として選ばれました修道女に過ぎません。これといって特別な事をしたおぼえはありません。ですからこの手記をお願いされました時、どうしましょうかと、はたっと困りました。しかし全能の神様は、無力な私達を使っていろいろな事をなさいますのも確かです。それで神を賛美する意味で、ここにいままでの出来事を少し書いてみます。
1974年に宣教師として日本を去りました。アフリカ大陸に渡ったのは、最初はナイジェリアの元ビアフラと呼ばれていた地方でした。戦争で荒れ果て、外国人は皆退去したので、私達が戦後入る始めての外国人で、色黒の私もオニョオチャ(白人)と呼ばれ生徒から触られたりくちゃくちゃになる体験もいたしました。皆、人なつこくやさしい人たちでした。この国に新しく本会の創立をたのまれ出かけました。(現在、ナイジェリア修道院は、60人以上の現地の修道女を持つ大きな修道院に発展しています)。慣れない事ばかり、最初につくったのはまず飲み水でした。暑いアフリカでの生活に慣れない私は、レモン水を飲みすぎ身体をこわしました。それで米国に転任を命じられ途中シエラレオネによりましたのが、神様の思し召しといいましょうか、1977年から今に至ってここルンサの住人になっております。
シエラレオネでは貧しく女子は学校にも行けませんでした。1980年日本に帰り、玉川大学を訪問しました時、先生方の御協力を得て、シエラレオネを助ける手を貸す運動という会を作っていただきました。そしてはじめて奨学制度ができました。シエラレオネは貧しく一日一食が普通でした。生徒はおなかがすいてお勉強も出来ませんでした。
それを見た当時の小学校校長より、日本に帰ったら日本の皆様に200円の献金をおねがいしてください。そうすれば一人の生徒が給食を一月食べられますと言われ、全国の学校を回りおねがいしました。
ほとんどのシスターが戦争で避難して行きましたが、戦争当時の校長が急死されましたので私がそれを継ぎ、責任者として国に残りいろいろな戦争体験をいたしました。ジャングルを3日間逃げ回り、遂に兵士に銃を向けられ死を覚悟もいたしました。九死に一生を得て一時避難いたしました。その間、ロシアのボルガ川のそばのサラトフに派遣されました。
2002年にやっと平和になり、又シエラレオネにもどりました。修道院も学校も皆、壊され、はじめからのやりなおしをしなければなりませんでした。日本とそして世界の皆様の愛の支援により、再出発しました。ルンサは又戦前より大きな学校になり、2007年からは女子の中学を増設しなければなりませんでした。
現在3000人以上の生徒が勉学にはげんでおります。毎日給食がいただけますのも、日本からの支援によるからです。今回の大震災にさいし、貧しいルンサの学校の生徒も先生も一つになり、祈りつつ自分の持っている少ないお金から、喜んで日本の為にと寄金をもってきました。これは遠い日本の皆様がいつも助けてくださいましたから、地球の反対側であっても自分の家族の様に感じたのでした。
愛は決して失う事はありません、お互いに愛し与え合う時にすばらしい世界がやってくるのだとつくづく思います。私には何も出来ません、しかしここ西アフリカの片隅におります事によって、皆様の愛の架け橋になれましたら、本当に幸せです。ここで元気で働く事が出来ましたのも、全国のすばらしい後援者の方々の愛の御支援と祈りに支えられているからなのです。私は世界一の幸せ者と感謝しております。ありがとうございました。これからもよろしくお願い申し上げます。神様の聖旨の日まで努力したいと思います。