社会貢献の功績
福田 千代子
神山復生病院は、明治20年パリ外国宣教会の神父が、宣教のなか一人のハンセン病者と出会い、社会で放置された同病者の救済を思い立ち、現在の御殿場市新橋(にいはし)に家屋を借用して6名の患者を収容したのが始まりであった。その後現在の神山に場所を移し、日本初のハンセン病の治療所として、多くの病者が治療と生活をしてきた創立119年にもなる病院である。
元々病院は、自給自足のために田畑や農場を持ち、病院と患者がそれを営むことにより、食材の総てを自前でまかなっていた歴史があるところから、病院の敷地はバス停で一区間分もあるほど広い面積を持つ。
福田さんは、病院に調理師として昭和26年に就職し、採りたての材料を調理することから病院での仕事が始まった。勤務の時間外には畑の耕作も手伝った。福田さんの実家は、病院と道を隔ててすぐ近くにあり、小さい頃から病院で草取りなどのアルバイトをしていた経験から、当時から家族を含めハンセン病に対する偏見はなかったという。
福田さんは、病院で調理師や看護助手として、主に裏方の仕事をこなし、草取りはじめあらゆる雑務を進んでやった。患者に対しても勤務時間を度外視し、よき理解者、よき友として働いた。「勤務が非番の日でも、病院に来て自分達の食事の世話をしてくれるなど、なんのわだかまりもなく私達に尽くしてくれる」と患者からの信頼も厚い。
福田さんが、病院での51年を振り返って思い出すのは、患者と共に楽しんだ病院でのいろいろな行事であるという。夜中の3時頃から準備をし、大きな2つの臼を使っての正月の餅つき。東京の神学校の生徒との野球大会、そして箱根まで弁当を背負っての遠足など患者が心から楽しそうに笑う姿が目に浮かぶ。
福田さんの誠実で献身的な仕事ぶりは今日に至っても変りなく、定年退職後も病院に残 り、現在も身体不自由な旧ハンセン在院者11名と一般病棟の患者に、非常勤の看護助手
として尽くされている。
受賞の言葉
この度は名誉ある賞を頂き感激いたしております。この賞を頂けたのも長い間働かせて頂いたおかげです。シスターをはじめ、亡くなられた患者さん、今のこっておられる10人の兄弟達に心から感謝申し上げたいです。これからも賞に恥じないように努力して行きたいと思ってます。私のために色々とお世話頂いた皆様に感謝申し上げたいです。ほんとうに有難うございました。