第二部門/多年にわたる功労
大楽 英子
「池の川幼稚園」を開園した昭和39年、すでに2年間の就学猶予をしている水頭症の児童の入園申し込みがあった。初めてのことに自信を持てず、高名な教育評論家に相談したところ「丁重にお断りしたほうがいい」と言われ一度は断ったが、「一緒に遊ぶだけでも」と親に拝み倒され、引き受けられた。不安をよそに、ほかの子供たちに囲まれ、その子は片言の言葉を覚えて口にするようになり、表情も豊かになっていった。しかしその年、親元へは就学免除の連絡が届いた。小学校に来なくてよい、という意味である。さらに2年ののち、特殊学級が小学校に設置され、初めてその子は進学することができた。このお子さんをめぐる出来事が、大楽さんの障害児教育の始まりとなった。
池の川幼稚園は、障害児を受入れてくれる唯一の幼稚園として市の内外に知られるようになり、障害児の数は増えた。このため43年に障害児の特殊学級「たんぽぽ学級」を園内に増築し設置した。当時としては画期的な取り組みであり、親たちから起きた受け入れ反対運動や、幼稚園の先生と障害児を担当するセラピストとの姿勢の食い違い、セラピストたちの中での考え方の齟齬など、難しい点もあったが、根気よく取り組んでいった。そんなある日、のちに大楽さんの協力者となる教育関係者にたんぽぽ学級の話をすると「それは差別だ」と言われた。受け入れを行っていることを評価されると思っていた大楽さんには、大きな衝撃だった。が、園舎の建替えのため、健常児と障害児とが同じ教室を交代で使用するようになったとき、健常児の子どもから「ぼく、ばかになったの」という言葉が出たと聞き、大楽さんは「差別だ」という言葉を思い起こさざるを得なかった。
これをきっかけとして、昭和48年に健常児と障害児をいっしょにし(混合保育)、なおかつ年齢別を撤廃(縦割り保育)したクラスに複数担任がつくという、教育体制の改革を実行した。こうして池の川幼稚園は、縦割り混合保育の草分けとなった。複数担任制は経済的な負担が大きく、数年後には経営が立ちゆかなくなる寸前にまでなったが、行政の理解が得られるようになり、事態は好転した。やがて全国からの見学者が多く訪れるようになった。
以来、今日までこの方式は続いているが、大きい子は車いすを押したり、全盲の子の手を引いたり、子供たちは障害児へのいたわりを自然に覚えていった。現在は自閉症や知的障害、聴覚障害、身体障害など、障害の種別なく常に10人前後の障害児が在園しており、毎年、健常児と変わりなく立派に卒園していく。現在までに卒園した障害児の総数は217名となっている。
平成7年には、上級学校を卒業しても就労できない障害児のために、幼稚園の空き部屋を利用して、小規模福祉作業所「ワークスたんぽぽ」を開所された。同所は他の場所に移転し、現在11人が通所する市の認定施設に成長している。