第二部門/多年にわたる功労
オギノ 芳信
昭和48年、写真家の氏はヒマラヤの美しい山々の写真を撮るために、初めてネパールを訪れた。
しかし、ヒマラヤ山脈中部南麓に位置し、農耕・牧畜が主産業の同国で目にしたのは、病気と貧困に悩まされている村人の姿や汚れた街並みであった。現実のネパールを見て2度と行きたくないと思ったが、翌49年、子どもの運動靴や鉛筆・ノートなどの学用品を抱えて、再び同国に赴いた。
高校進学を断念した氏自身の苦い体験から生じた、貧しさを何とかしてやりたいとの一念で、以来、「自分の幸せの一端を分けたい」と私財を投じ、多くの人々に募金を呼びかけながらボランティア活動を続けている。
ネパールの山村を回る氏が最も心を痛めたのは、水道施設の未整備による疾病の発生と学校に行けない子どもたちの姿であった。識字率も極めて低く、自分の名前さえ忘れてしまう子どもたち、また、不衛生な環境から肝炎やコレラで若死にし、平均寿命も低いという劣悪な環境を改善するため、簡易水道の敷設と学校の建設を決意した。
講演会、ネパール写真展の開催など援助活動の資金集めに奔走したが、個人の活動に限界を感じて、昭和52年に日本ネパール友好協会を設立した。以来、代表世話人として全国各地にネパール支援を呼びかけて善意の輪を広げ、私財に加え支援者からの義援金も得て建設に着手した。
同57年、カトマンズ東方のテマルシナに小学校を増築して以来、これまでに標高1200mから2000m以上の15の山村など20ヶ所で学校を新築したのをはじめ、学校増築6校、水道施設の敷設3ヶ所、社会福祉センター新築1ヶ所の援助活動を果たしている。 さらに活動範囲は医療分野にまで及び、平成8年、9年にはボジプールなど3ヶ所で診療キャンプを設置、医師の協力を得て白内障患者の手術や治療を実施して病いに苦しむ人々を援助するなど、幅広い援助・協力活動を実践した。
現在も約3ヶ月毎に同国に赴き、学校や診療所等援助施設の運営状況の把握に努め、教員や医師の給料や文房具を手渡しながら各地を訪問している。