北浦 茂
様々な事情から不登校になった子どもたちを問題児として捉えるのではなく、大切な存在として個々の特性に合わせた教育が必要と考え、岐阜県内で13年間に亘りボランティアで不登校児童や生徒・親の支援を行っていた。その後、宿泊型フリースクールやNPOとして支援を続け、2008年に岐阜県内の廃校となった小中学校校舎を借り受けて学校法人「西濃学園中学校」を開校。不登校のための技能連携高校の教育を始めた。
この種の学校で寄宿制の正規の学校は全国でも数少ない。大自然の中で愛情あふれる教師や臨床心理士の指導のもと、学習の遅れや喜びを取り戻しながら、地域の清掃や草刈り、植樹などの環境ボランティアを活発に行い、祭りや運動会などを地域と共同開催するなど、多くの場面で地域住民と交流している。こうした交流により、子どもたちが人間関係の構築や共同・公共の意識を学ぶ一方で、高齢化と人口減少の進む地域にも若者の息吹を吹き込み共存し、互いに助け合うことで村づくりや人づくりを行っている。
名誉な社会貢献者表彰を受賞することができ身に余る光栄です。厳かな式で身が引き締まる思いで安倍昭恵会長から表彰状を受け取りました。このハレの日を迎えるに多くの方のお世話になりました。特に妻には54歳での高校教師の退職後を支えてきてくれたことに深く感謝しております。
私が最初に教師になろうと思ったのは、小学校6年生の時でした。その頃の私は勉強嫌いで、毎日のように居残りをさせられていました。ある日、担任から「明日は竹とんぼを作るから切り出しナイフを持ってくるように」と言われました。工作が大好きだった私は、翌朝ウキウキして登校しました。一時間目の算数の時間には、先日のプリントが返され、プリント直しが命じられました。私は懸命に取り組むものの二時間目になり、先生は冷酷にも「出来ない人は続けてしなさい」と宣告されました。三時間目の図工の時間になっても、終わらない私には、竹とんぼの材料は渡されず、ぼんやりと皆の竹とんぼ作りを見ていました。この時、私は図工の時間には図工を行う先生になりたいと思ったものです。
中学に入学して、家庭教師の先生をつけてもらいました。その先生は勉強のほかにも、映画や哲学、スポーツのことなど、いろいろな話しをして下さいました。一挙に私の世界が広がり、急に大人になったような気がして成績も向上しました。その先生は教師の職業に関心を持っておられ、よく斎藤喜博先生のことを話され、「可能性に生きる」という本をプレゼントしてくださいました。それを読んで私もこのような教師になりたいと思いました。
高校教師になり、不登校を主張する生徒と出会い、情熱だけの指導では悪化することがあり、臨床心理学の知見が必要と考え、新しい学校創りの夢を描きました。故遠藤豊吉先生(教育評論家)は「人が真剣に、事を始めようとすると、その志に惜しみない拍手をおくる人、実現不可能とはっきり予言する人、あたかもドン・キホーテの如き行為と冷ややかに笑う人、壮大なロマンを眼前にした時、人が見せる反応のすべてです。」と言われながら私は高い山を目指しました・
一教員の私にとっては山また山の連続でした。困難に遭遇した時、常にプラス思考を心がけ、誠実に一生懸命に歩み続けることで先が見えてきて学園創立に辿り着きました。
最後に私を温かく育てて頂いた皆様に心より感謝いたし、この受賞を一つの通過点として、子どもたちの「無限の可能性」を信じ歩み続けていきたいと覚悟を新たにしております。