社会福祉法人 訪問の家
重症心身障害児者といわれる重い障害のある人たちの通所施設に関する法律がない時代の1986年に「朋」を開設するところから、法人の運営をスタートした。
「朋」は、1972年に始まった横浜市立小学校の訪問学級と母親学級が母体となり、重い障害のある人が学校卒業後も通える場、集える場をとの願いから、横浜市の理解を得て、一部地域住民の反対という試練を経ながらも、同市栄区桂台に全国でも例のなかった重い障害のある人の通所施設として開設した。現在、全国300ヵ所に及ぶ重い障害のある人が社会参加できる通所施設の先駆けとなった。
現在、訪問の家は横浜市栄区、磯子区、旭区で、重い障害の人たちが地域で暮らす支えとなる13ヵ所のグループホーム、5ヵ所の生活介護事業所のほか、相談支援事業、ホームヘルパー活動、診療所さらに日々の暮らしを見守る後見的支援事業や高齢者の地域包括支援事業など、「一人ひとりを大事に」また「誰もが暮らしやすい社会づくり」を理念に、30年を超える法人運営を続けている。
33年前の朋開所時から通所されていた55歳の女性が、今年5月に亡くなられました。22年間、仲間と共に暮らしたグループホームでの早朝のことです。言葉を発することは難しく、コミュニケーションは、身の回りのことなどわかりやすい質問に「ウーン」と返事をするか、視線や表情などから周囲の人が察知します。日常生活上のほとんどに介助が必要な、いわゆる重症心身障害者といわれる方でした。彼女は、33年という長い年月を、社会福祉法人訪問の家が主に事業を行う横浜市栄区で活動し、暮らしました。車いすで近隣を回る空き缶の回収、わずかに動くひじや手を使って行う缶プレス、作業の下準備をしてくださっていた老人会への定期的な訪問、所属するグループではスタッフやボランティアさんと共に(手添えで)“どら焼き”づくりもしていました。どら焼きを買ってくださった方にお茶をふるまうことを彼女が「やりたい!」と意思表示し、いつしか、朋への来客やコンサートをしてくださる演奏家の方などへのお茶出しも彼女の仕事となりました。グループホームでは、常に15人近いヘルパーがローテーションでケアにあたっています。暮らしの中の、その時々の気持ちが受けとめられてきたのです。大好きな歌手のコンサートに行く計画も、お母さんが亡くなった悲しみを乗り越える時も、特養で暮らすお父さんとのうれしいうれしい旅行も、ホームのスタッフやヘルパーと一緒に叶えてきました。その彼女との「お別れ会」には、これまでの活動の中でおつきあいのあった地域の方や、ホームに入られていたヘルパーさんなど、本当にたくさんの方が集まってくださいました。みなさんそれぞれが、彼女との大切な思い出、そして、彼女と出会えたこと、共に過ごせたことへの感謝を語られました。
33年前、訪問の家を創設した日浦美智江前理事長は、障害のある人の施設はそこを利用する一部の人のためのものではない、“生きるということ”、“いのちの大切さ”を感じ考えることができる「文化施設としての社会福祉施設」であると述べました。先述の女性の、言葉でなくとも多くの人と関わり合い影響を与え合ったであろう人生は、訪問の家の歩みが間違っていなかったことを感じさせてくれる、私たちにとってもたいへん輝かしいものです。
この度は、たいへん栄誉ある表彰をいただき、ありがとうございました。この表彰に恥じぬよう、今後とも一人ひとりの気持ち・希望を大切に、多くの人とつながり、思いを共有していく活動を続けて参りたいと思います。
理事長 名里 晴美