受賞者紹介

平成24年度社会貢献者表彰「東日本大震災に貢献者表彰」受賞者紹介

駒場 恒雄
花巻市在住の社団法人日本筋ジストロフィー協会の会員で、震災後、電気が復旧したのち会員の安否確認を電話で行った他、ラジオやインターネットを通じて会員の消息や情報を流した。その後被災地で会員の患者を訪問し、呼吸器を使用している患者には停電時の対応や課題などを聞き取り調査し、ワークショップなどで、被災した難病患者の実態と課題を報告したり、要援助者の対策の必要性を新聞に投稿する等、障害者理解のために活動した。
大高 博光
梅田 祐一郎、愛甲 香純
気仙沼市シルバー人材センターの職員で、3月11日の震災当日、高台に位置するセンターには津波から逃れようと避難者が集まり、緊急の避難所となって、約40人の人々と一夜を明かすことになった。その際二人が中心となってセンターにあったタオルやトレーナーなどをあるだけ配り、翌日の朝には流れ着いた壊れた冷蔵後を解体してかまどを作り、水産業者から提供された雑炊で炊き出しを行ない、避難者や被災した多くの人に温かい食事を配った。その後も避難者のサポートを8月頃まで行った。
宮城県気仙沼市シルバー人材センター 柏木 芳朗
八木田 文子
自宅の被害が床下浸水で済んだことから、息子の剣道仲間で被災した3家族、10人を自宅に呼び寄せ、自身の家族と併せ13人長い人で2ヵ月もの世話をした。水洗トイレはつまり、配給物資も少ない中、食べ盛りの子どもがいたため、食料の手配は大変なものだった。
保積 陽子
北村 泰秀
幼稚園の園長で住職でもあり、大震災発生時から5月までの2ヵ月間、石巻市の法山寺幼稚園にて避難してきた530人を受け入れ、衣食住の支援を行った。震災後の2、3日は切羽詰った状況で、避難所の指定を受けていないことから、行政からの援助がなく、瓦礫や汚泥手が山となり道もないところ、重機を借りるのに大金を支払い、道路を整備し、自ら食糧を確保しにいかなければならない状況であった。僧侶であるため葬儀の仕事もしながら、5月半ばまで幼稚園に泊り、避難所の秩序を守りながら避難者の衣食住を支援続けた。
社団法人 宮城県私立幼稚園連合会 理事長 村山 十五
宮城県知事 村井 嘉浩
小國 詔正
病院で被災し3日後に自宅に戻ると、高台の自宅は津波から逃れた地元住民50~60人で避難所のようになっていた。高台を登ってきた人に自宅に泊まるように妻が声をかけ、女性、子供、お年寄り50人程は自宅に、男性10人は、自宅下にある作業所で避難生活を送ることになった。仮設トイレの設置から食料の提供まで、最後の一人が、避難所に移るまで支援活動は1ヶ月に及んだ。
公益財団法人 社会貢献支援財団
堀内 ツグエ
大震災発生時から5月17日まで岩手県宮古市赤前で400人を越える避難民の食事の賄をした。震災当日、自宅にあった米や食材一切を持ち込み、飲料水も調達して避難所であった赤前小学校の給食調理場を利用し、真っ暗闇の中600人分のおにぎりをにぎり救援活動に当たった。その後不眠不休で3日間炊き出しを続けた。その後、自衛隊から食材の提供を受け、高齢者などに配慮した食事を提供した。避難民の中から堀内さんを慕い、率先して調理を手伝う女性も出て、赤前避難所の厨房で働く女性たちを「チームツグエ」と呼ぶようにまでなった。
宮古市立赤前小学校 /宮古市教育委員会 教育長 佐々木 敏夫
佐藤 一彦
宮城県仙台市で自宅は半壊したが、郷里から離れて生活し被災した大学生延べ50人へ避難所として開放して、衣食住のサポートをした。また、自らが代表を務める地元のスポーツ少年団の団員や保護者、近隣住民に呼びかけ物資を調達し11月末までに約75,000点を宮城県内11市町、岩手県内3市町ののべ166ヵ所に届けた。さらに、東松島市の避難所に他団体と協力し仮設風呂を設置したり、遊び場を失った子どものためにスポーツイベントなどを企画開催したり、ボランティアスタッフの疲れを癒すためのサービスなども行った。
佐藤 一彦
菅野 修
陸前高田市で150日以上も市のスポーツドームに避難した約200名避難者のために指導力を発揮して救援活動を行った。震災翌日には避難者を集め自己紹介し、現状を説明しおびえていた避難者のこころをほぐしながら、指定避難所ではないため、支援が望めないであろうことを説明し、自主警備や食料調達、衛生管理の3組織をつくり、避難所の運営を円滑にした。全員が仮設住宅に移動するまで避難所に寝泊まりし避難者のケアにあたった。
岡田 耕吉
佐藤 宏、遠藤 一彦
自らも被災者であり、一般の会社員であった彼らは、大津波から避難してきた住民で混乱する南三陸町の指定避難所、ベイサイドアリーナで1,500人余りの避難住民のリーダーとして活動し、食事提供の計画や配給方法、避難住民同士のいざこざの仲裁など多方面で活躍した。避難所の施設では、電気設備の図面を調べ自家発電を利用し浄化槽の運転を可能にし、仮設トイレの汚水処理を可能にするなど、技術者としての知識とノウハウを駆使して快適な環境を提供した。当初数名だったスタッフも、彼らの懸命な行動に触発され40~50名までに膨らんだ。震災からひと月後、役場やボランティアセンターが機能し始めたのを機に業務を引き継いだ。
山内 亜由美
鈴木 廉、鈴木 みゆ
陸前高田市大石地区に設置された共同入浴場「復興の湯」で、父親と共にボランティアで共同浴場の運営のため出勤。お湯汲みや薪をくべたり、垢まみれの風呂桶の清掃、毎日200~300名もの入浴者に貸し出すタオルを干しなどを20日間ほぼ毎日、学校が休校の間、余震が続き寒さに凍える中率先して手伝った。
鵜浦 昌也
金野 光晃
陸前高田市の大石地区に設置された「復興の湯」の本部長としてに運営に携わった。復興の湯は1日200名多い日は300名もの被災者が利用した。また、震災当日の地震発生直後は裏山にすぐに避難したが、体の不自由な高齢男性がトボトボと避難してくるのが見えたため、引き返して男性を肩で担ぐなどして、迫りくる津波を背に裏山に上り助かった。その後も2キロ離れた避難所まで男性に付き添うなど人命救助も行った。
鵜浦 昌也
太田 明成
陸前高田市で飲食店を経営していたが大津波で流失した。失意の中、地域のために出来る事はないかと奮い立ち、両親や兄、ツイッターなどで協力を求め「靴」を集め、震災後の3月末から4月末まで、市内のコミュニティーセンターや小規模な避難所などで計1万6千足を配布し、多くの人から喜ばれた。
鵜浦 昌也
佐々木 平一郎
岩手県宮古市赤前で、震災時、車椅子の障害者をいち早く救助し避難場所に送り届け、その後も地区民にに案を促し救助活動に当たった。自らの自宅も津波で流出し、すべてを失ったが、避難所暮らしをしながらも民生委員としての使命感に燃え、避難所運営に携わった。仮設住宅に入居後は仮設住宅の自治会長となり200人に及ぶ入居者の心の支えとなり支援物資の分配やボランティア団体への対応、行政機関との連絡などに献身的に活動している。
宮古市立赤前小学校 / 宮古市教育委員会 教育長 佐々木 敏夫
中島 響
震災の惨劇をテレビでみて、鹿児島から南三陸町に移り住み、同町の災害ボランティアセンターで南三陸を片付け隊の隊長に任命され、長期にわたり復興復旧のために活動している。また10年先まで支援したいという思いで「社団法人よみがえれ南三陸」を設立し、長期ボランティアの支援、同町の雇用促進、水産関連インフラ整備、海産物の販売促進、福祉事業に関する支援を軸とした活動に取り組んでいる。
松島 裕 / 株式会社 M.BROTHERS 代表取締役 宮脇 康敏
早坂 本勝
南相馬市法恩寺の僧侶で、震災発生の翌日3月12日から遺体安置所閉鎖の9月30日まで、毎日同市内に設置された遺体安置所に赴き、同市内の犠牲者630人に向けて読経を続けた。遺族から感謝の声があがった。
財団法人 警察協会
片品村
群馬県片品村は、5,200人の人口の2割にあたる1,000人近い避難者を、福島県南相馬市から受け入れることをいち早く村長が表明。3月14日から167日間、村を挙げての支援を行った。まず、受け入れのための予算一億円を確保、民宿旅館組合に協力を依頼。ボランティア組織”片品むらんてぃあ”を金銭面でもバックアップし協働で避難者を支援した。住民も支援物資を届けたり、お茶会や郷土料理教室を開催するなど、地域ぐるみで支援を行った。
社会福祉法人 片品村社会福祉協議会
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片品むらんてぃあ
片品村が受け入れた福島県南相馬市からの避難者1000人弱に対し、村民の有志で作られたボランティア組織「片品むらんてぃあ」が、避難中の支援を行った。まとまった避難所と異なり、片品村の避難者は分散して滞在しいることから、伝達事項や物資の配給が一斉に行えない状況を補助するのがこの組織の大きな役割だった。主な活動は県内外から送られてくる支援物資の仕分け、総勢150名を超えるボランティアの登録手配、避難者の病院や買い物への送迎、イベント開催を希望する団体への対応から運営など、被災者全員が村外へ転出するまで支援活動を行った。
片品村長 千明 金造
紹介動画
社会福祉法人 福岡市身体障害者福祉協会
震災直後より仙台市障害者福祉協会の要請により、3月末日から27日間にわたって「福祉避難所」となった仙台市宮城野障害者福祉センターに職員10名を派遣し、日夜、通常の指定避難所では過ごすことの出来ない高齢者や心身の不自由な避難者の介添えや介護にあたった。
財団法人 仙台市障害者福祉協会
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