社会貢献の功績
安田 未知子
昭和6年に東京で生まれ、第二次世界大戦を両親の故郷沖縄で迎え、学校長と牛島中将の伝令役として戦争に参加。校長の命で県外に進学していたかつての上級生に沖縄へ戻るよう訴える手紙を書き、戻った40名がひめゆり学徒隊となって全員命を落とした自責の念と教育の恐ろしさから教師になることを躊躇したが、「教師志望だった先輩たちの代わりに自分が」と沖縄初の女性英語教官となる。我が子5人の他に通算43人の子どもを自宅などで世話し、私費で進学させた。在職中に何度も大病を患ったが、沖縄の薬草服用や食事を見直し克服。定年後は介護老人保健施設を設立し、施設内にハーブ園を設け、無農薬ハーブの栽培を通じ障がい者の就労にも結び付けている。すべての障がい者と50余年を共に歩み、現在は、スペシャルオリンピックス日本・沖縄の会長を務めている。いつの日か、障がいを持つ人が安心して暮らせる村が出来ないかと「一人(ちゅい)たれいだれい」(一人でできないなら支えあおう)の心で実現に向けて準備している。
表彰式典に出席して
平成27年11月30日、帝国ホテル東京にて、社会貢献者表彰式典に出席した。会場では、安倍昭恵会長のあいさつ、瑶子女王殿下のお言葉、表彰選考委員長内館牧子様の挨拶から始まり、祝賀会は笹川様の乾杯で会が盛り上がった。家族・友人に囲まれて喜びの中に楽しい時間を過ごすことができた。
前日まで「なぜ、私が受賞するのか」が解らないまま説明会に出席した。会場には、49件の選ばれた人と、その家族がいて、1分間スピーチと共にスクリーンに出てくる美しい姿の活動状況をみて、やっと理解することができた。スクリーンを見ながら、皆さんの話を聞いていると、その活動の根の深さに感動し、涙が止まらなかった。「根がのびる程、枝のびる」との、みことばを思い出した。私は、70年間の月日は長いけど、広く浅い活動をしていたことに「お気づき」をいただいた。
戦後70年を振り返ってみると、13歳で第一高等女学校に入学したのに、牛島中将と校長との伝令として従軍し、校長の命令で、進学のため本土に行った42名に手紙を書いた。戻って来た40名は、ひめゆり学徒隊として全員が戦死した。教育の恐ろしさを知った私は、絶対に教師にはならないと思っていたのに、「未知子、教師とは人が人を教え導く大事な職業ですよ」との母の言葉で英語教師になり再び悩みを背負って、どう生きればよいのか解らないまま、43年の教職生活の中で、居場所のない子、進学したい子43名を自分の子5名と共に我が家で教え育むことができた。戦後の苦しい時代に主人の協力のおかげで子供たちは立派な社会人になった。「愛あればこそ」愛は見返りを求めません。どんな人でも「愛する心」は持っていますが、時には欲、見栄の為他人の命をも奪うこともある。
私は、30年間大病を患い、3度も死線をさ迷いましたが、家族・両親・周りの人たちの愛に支えられて、今を生きている。
生きるということは、悩み、苦しみが多く全国の病人の方から「どうして病気を治したのか」との問いに「沖縄ハーブ健康法」を出版した。運命は変える事はできる。健康になるには「病院は調べる所・医者は調べる人・治すのは自分」と「強い精神力」と「食べ物」にあることがわかり実践した。やっと元気になり美しい娘も授かったが、10歳にして黄泉の国へ旅立った。あまりの悲しさに毎日泣き叫び、神・佛を信じることが出来なくなったとき、シスター渡辺和子様の「みことば」で救われた私は「ことば」の重さを学んだ。
この度は、すばらしい賞を下さった社会貢献支援財団の皆様に、喜びと幸せの中に「お気づき」を下さった事に感謝いたします。今日からまた、一歩を踏み出すことを誓います。
誠にありがとうございました。
介護老人保健施設 いずみ苑
苑長 安田 未知子