東日本大震災における救難活動の功績
浅見 健一
震災発生時、館長として勤務していた宮城県仙台市の高砂市民センターに1,200人以上の住民が避難してきたが、同センターは市の指定避難所ではなかったため、行政からの支援は断られた。このことに浅見さんは奮い立ち、「以後行政からの支援は一切受けない」と啖呵を切ると、避難者に向けて「私の命にかえても皆さんをお守りします」と宣言し、近隣の企業や友人知人などに支援を求めた。すると、全国から予想を上回る支援が届き、同センターでは震災翌日から異例の一日3食の支給を可能にし、震災当日から2週間以上自宅に帰らず避難者を支え続けた。「行政に頼らない避難所」として広く報道された。同センター避難所が閉鎖されてからも支援活動は継続し、退職後は震災復興支援グループ「きぼう」を設立し仮設住宅及びみなし仮設住宅などへの支援活動を継続している。
このたび、公益財団法人社会貢献支援財団による平成25年度の社会貢献者表彰式典におきまして受賞の栄に浴し、身に余る光栄に心より感激するとともに、改めて日下会長様をはじめ、選考にあたられました関係者の皆様に感謝と御礼を申し上げます。
また、東日本大震災後、高砂市民センター避難所に対し、心温まるご支援を頂きました全国の多くの企業及び個人の皆様にも重ねて感謝いたします。
地震発生当日、私は仙台市宮城野区にある仙台市高砂市民センターの館長として勤務しており、地震が発生した直後から高砂市民センターには、津波から逃げてきた外国人15名を含む多くの避難者が押し寄せ、さらに、津波により全身が油まみれになった避難者が助けを求めてきました。
このような状況の中、私は区役所に対し、食料や毛布などの支援を要請しまたが、区役所の職員から市の指定避難所ではないので、すぐには支援できないと断られたために、「今後一切、行政の支援を受けない」と啖呵を切り、自ら行政を頼らず避難所運営を行なうことを決意し、高砂市民センターに避難してきた避難者に対し、すぐに支援を受けられない経過を説明し、今後は、自分の命に代えても避難した市民の命を守ることを約束しました。
しかし、長期に亘る避難所運営が予想される中、行政から支援を受けずに市民の命を守ることに、正直なところ大きな不安はありましたが、強い信念を持って即行動し、高砂市民センター避難所の厳しい現状を打破するために、避難所運営が軌道に乗るまでの二週間は、自宅に一度も帰らずに自分で食料や物資を集めるために奔走しました。
近隣の企業や全国の知人・友人に支援を頼み、さらに全国の多くの企業や個人の皆様から食料や物資などの支援を受け、お蔭様で震災当日は勿論、仙台市の指定避難所が当初1日1食のときも高砂市民センターの避難所は毎日3食を提供することが出来ました。
震災翌日から、食料に困った近隣の老人福祉施設や町内会にも食料などを支援するため、毎日最低でも3,600食以上を集め、毛布についても避難者の協力を頂き、震災翌日までに2,000枚以上を集めました。さらに、集めた毛布の一部を石巻をはじめ多くの避難所に支援。その後、行政に頼らない避難所としてマスコミ報道され、毎日全国から予想を越える山ほどの食料や物資の支援を受け、福住町内会や広瀬川倶楽部及びアマニヤ・アフリカなど複数のNPO団体の力を借りて、宮城、岩手、福島などの避難所50ヶ所以上に再分配し、他の避難所を支援してきました。
高砂市民センターの避難所は、一時1,300人を越える避難者が避難し、避難者名簿届出者は、1,227名に達し、区役所との話し合いにより途中から食事のみの提供を受けることに同意ました。他の避難所への支援も継続、高砂市民センター避難所は、6月28日閉所されるまでの110日間、避難していた避難者に感謝されながら、行政を頼らない避難所の役目を終えることができました。閉所後も他の避難所や仮設住宅及び津波被災地域の町内会などには、全国から集めた食料や生活物資の再配分支援を続けました。
平成24年3月に高砂市民センター館長退職後は、震災復興支援グループ「きぼう」を7名で立ち上げ、企業や個人の皆様から生活物資などの提供を受け、宮城・岩手・福島の仮設住宅や一部自治体への支援行なっております。