東日本大震災における貢献者表彰
八木田 文子
自宅の被害が床下浸水で済んだことから、息子の剣道仲間で被災した3家族、10人を自宅に呼び寄せ、自身の家族と併せ13人長い人で2ヵ月もの世話をした。水洗トイレはつまり、配給物資も少ない中、食べ盛りの子どもがいたため、食料の手配は大変なものだった。
自衛隊のヘリや、ボートで避難場所に移ってきた孫の剣道仲間の家族達。我が家の被害状況は、床下浸水だったので、避難所から、狭い我が家にきてもらった。
避難場所である学校の3階教室からは、家も車も、そして人もどんどん流されるのを見たという。食べ物は「かっぱえびせん」数本を皆で分けて食べたと。
我が家は3人家族だが、その日から4家族大人6人、子ども7人計13人の共同生活が始まった。
この子ども達に、何としても食べさせなくては。水道も電気も止まったが、幸いプロパンガスが無事で、何とか13人で協力しあい、その日その日を生きた。
海沿いに住んでいた私の兄夫婦の遺体が14日目に、発見された。泣いている暇などない。我が家にいる、避難して生きている人々のほうが大切だった。
3.11から10日ぐらい過ぎて電気がついた。それから1週間ぐらいで、水道がでた。寒い雪の降る寒い中、もう給水車に並ばなくて良くなった。大きいスーパーで店頭販売が開始された。
主にカップラーメンが、並んでいた。生鮮食品はまだ売っていなかった。一家族ずつ帰り始めた。
6月、何気なく新聞に目を落とすと東日本大震災に関する「あろがとうの詩」を募集するという。何気なく応募した詩が優秀作品に選ばれた。もうすぐ、その本が販売され利益は全額震災復興に役立てるという。私も少しでも復興に役立っことが出来るんだと
いう思いで嬉しかった。
そのとき、封筒が届いた。社会貢献支援団体から表彰される事は、恥ずかしいけど嬉しい。我が家に避難しにきた方々にこのことを話したら、自分事のように喜んでくれました。