東日本大震災における貢献者表彰
鎌田 眞人
南三陸町の鎌田医院を開業し、地域医療に従事していたが、大震災で、同院及び自宅とも全壊、流失、全てを失ってしまったが、避難所である歌津中学校で、避難時に持ち出した若干の手持ちの薬と医療器具で震災直後から5月まで無償で被災住民の診療と心身に渡る健康相談に当たるなど、災害時医療等の確保に不眠不休で尽力した。また、3月15日からは被災を免れた接骨院を借り、町内唯一の民間診療所をいちはやく開設。巡回診療や訪問診療を行い、住民や被災者に安心感を与えた。
「3月11日のこと」
あの日の夜の闇の中、応急に設置された石油ストーブに照らされた薄暗い天井を見上げ、私はこれから先のことを考えた。あの日の午後、大津波に襲われ命からがら歌津中学校体育館に避難し初めての夜であった。幸いにも母親と診療所スタッフ、その時に診療所にいた患者は無事に難を逃れて皆、無事であった。
その時にはまだ被害の実態を確認したわけではなかったが多分、自宅も診療所も流出し、この町に住むことも、診察することも不可能であろうと思った。手元に残った医療道具は往診鞄とAEDのみ。レントゲンも心電図も注射も薬剤も、何もかもないのだ。これでは診療は不可能であり医者として仕事が出来ないと思った。
私は勤務医時代を過ごした大阪での就職を考えていた。厳寒の薄暗い体育館で、一緒に逃げたスタッフに「ここでの診療は、もう無理。それぞれが一人一人で生きていくしかない」、「俺は大阪に戻る」などと自分の考えを伝えた。皆の顔は青ざめ不安に打ちひしがれており、私の話に返す言葉もなかった。私は翌朝、仙台から通勤していて共に体育館に避難した薬局のK先生と共に仙台に行き、それから大阪に行く計画を立てた。
その夜は津波で全身が濡れ低体温症の患者さん1名の診察と、電話で大腿裂傷の患者が出たが診れないかとの問い合わせが1件あったのみと記憶している。初めての夜は意外に静かで恐ろしく寒い夜であった。多分皆、自分の目で現実を見るまでは映画の1シーンのような、あるいは夢の中の出来事なのではと思っていたに違いない。
翌早朝、朝日が昇るのを待って一人、体育館を抜け出して診療所に向かった。何人かの人たちとすれ違ったが、皆「これはひどい」、「もうだめだ」と絶句して通りすぎた。私も急ぎ足で町に向かったが、瓦礫の山で町どころか駅にさえも辿り着けない。これが現実で、夢なんかで決してないことを確信した。
朝になり、ざわついた体育館に戻ると町の保健担当者から、3キロほど北にある平成の森アリーナに出産予定日の妊婦がいるから診てくれと頼まれた。産科の経験はない。しかし、この町の医者は私一人しかいないので断る訳にはいかない。幸いなことに体育館に産科経験のあるベテラン看護師がいて同行した。妊婦はまだ陣痛もなく破水もしていなかった。私は保健担当者に、もし陣痛を起こしたり破水を生じた場合、ヘリコプターでかかりつけの気仙沼市立病院へ搬送するように告げ、瓦礫の中、仙台に発つべく体育館へ急ぎ戻った。
ところが一緒に向かうはずのK先生はすでに体育館を出て、仙台に帰った後だったのであった。私は目の前が真っ暗になり、同時に頭の中が真っ白になった。しかし、そうこう間もなく患者さんが私を見つけ次々寄ってきた。往診鞄にあった聴診器を血圧計が唯一の診療道具であったが、冷たい体育館のフロアで私は慌ただしく診察をこなした。
訪れる患者さんは私と同じ被災者であり、同じ立場である。その患者さんの安心した顔を見ると次第に「ここで医者をやる以外の道はない」と思うようになった。さらに「やる以上はトコトンやるしかない」と思った。昔の言葉で言うなら、恐らく「退路なし進軍あるのみ」だと。さらに、ここで逃げたら「もう医者ではない」とも思った。仙台も大阪もなく、診療所も医療機器も失ったが、ここ南三陸で医者をやっていくと決めた。
それからが大変で、注射も薬もない、検査も出来ない、でも患者がいる限り私は医者として、ただベストを尽くす。それしかない。3日後、元接骨院が被災を免れたと聞き、昼はそこに移動した。昼は接骨院で診察したが、夜は相変わらず体育館で診察した。接骨院は場所が歌津地区の中心なので各地区から来る患者を、夜は体育館の患者を診た。もちろん昼夜にかかわらず救急車で搬送される患者は全部診た。幸いなことに避難所、仮設診療所での死者はゼロであった。
その後、奈良県医師会から派遣された先生方が来られて、私は体育館での連続日当直を外れた。やがて接骨院に昼夜ステイするようになり、やっと通常診療を再開した。ナースや事務員は、いやな顔ひとつせず交代で当直に付き合ってくれたが、体育館で連続当直は4月まで続いた。現在も元接骨院跡の仮設診療所と同じ場所で、2011年3月15日より継続して診療を行っている。
お礼の言葉
昨年、歌津八番クリニックに改称し同じ場所で診療を続けていますが、それも当診療所のスタッフの協力と奈良県医師会の応援、さらには歌津薬局はじめその他大勢の皆様のおかげであり、心より感謝しております。またこの度、表彰してくださった「社会貢献支援財団」の皆様に御礼申し上げたいと存じます。
最後に
われわれ生き残った被災者は、今回の津波で命を失われた多くの方々に比べれば、まだ幸せであり、泣きながらでも前に向かうしかありません。全国、全世界の方々にはこれからも、この被災地の、悲しみの中から復興していく我々の姿を、決して忘れることなく見守っていただければ幸いと思っております。