受賞者紹介

平成24年度

東日本大震災における貢献者表彰

しゃかいふくしほうじん おおつちふくしかい
おおつちほいくえん

社会福祉法人 大槌福祉会
大槌保育園

(岩手県上閉伊郡大槌町)
社会福祉法人 大槌福祉会 大槌保育園
大槌保育園園長
八木沢弓美子

大槌町で、三陸自動車道沿いにある大槌保育園は、震災当日、大槌湾からの津波に正面から襲われた。八木澤弓美子園長は、園児113人(0歳児11人)を散歩用の台車に乗せ、園で設定していた避難所へと向かった。コンビニエンスストアに迎えに来ていた親御さんに園児約70人を引き渡し、残りの園児と共に後方の山へ避難した。津波が迫ると保育士とスーパーの従業員の協力のもと、園児をおぶったり、抱えて山の傾斜を登り、全員命拾いをした。子どもたちと体を温めあい、消防署と救急車の救援より避難所へと移った。1日におにぎり一つ、チョコレート1つという中、園児と避難所で3日間を過ごし、園児を親元に帰した。しかし、親御さんに渡した園児約70名の内、9人が死亡または行方不明になった。

推薦者:公益財団法人 社会貢献支援財団

3.11の記憶〜こどもたちとすごした日々〜
大槌保育園園長八木沢弓美子(やぎさわゆみこ)

大槌保育園がある岩手県上閉伊郡大槌町は、太平洋沿岸北部、沿岸南部のほぼ中間にある、リアス式海岸の景観が美しい町だった。東日本大震災と津波で街が52%が壊滅的な被害を受け、震災前に15,277人だった人口は、1月31日現在で死者802名、行方不明者479名。これは岩手県全体の死者・行方不明者のおよそ21.5%を占めている。

3月11日午後2時46分

年度末の3月。卒園に向けての準備や新園児面接の準備など、普段と変わりない生活。こどもたちは午睡から目覚めたばかりだった。

小刻みにかたかたと揺れはじめ、その揺れはだんだん大きくなっている。園庭を見ると大きく地割れしていて、「これはただごとじゃない!」と直感し、準備ができたクラスから直ちに避難するよう指示した。

園舎の前に集められた家具や道具

当時わが園は、0歳児が11名、1歳児が16名、2歳児が17名、3歳児が26名、4歳児が16名、5歳児が27名の合計113名。0歳児は、給食担当の栄養士や調理師、支援センターの職員にも避難時の応援をお願いしていた。避難訓練の時にはいつも「足が痛い」「靴が脱げた」などと言うこどもたちも、その時は真剣に走り、独自に地域の方たちから聞いて津波避難場所と決めていた、高台にあるコンビニへと急ぎ向かった。

無事コンビニに到着して、迎えに来てくれた保護者の方に子どもたちを渡していると、「あれ、火事!?」遠く沿岸に見える水門付近が砂煙で茶色に変色している。「あっ、電信柱が倒れている!」平行に並んだ電信柱がつぎつぎにゆっくりと倒れていくのが見えた。「津波だぁ!」「この場所も危ない、ここより高い所にいこう!」必死で走っていると、ゴォ〜!バキバキバキィ〜〜!今まで聞いたこともないような爆音と共にものすごい勢いで津波が迫ってくる「がんばって!先生のそばにいれば大丈夫だよ!」と子どもたちを励ましながら無我夢中で国道を走り、「山に上がるしかない!」と決断した。周りの人たちに「助けてください!子どもたちを山に上げるので手伝っていただいてもいいですか?!」と走りながら叫び、子どもたちを背負い、急斜面を四つんばいになって懸命に登った。

園児を乗せて斜面を登った

やっとのことで登った山頂でも余震が断続的に起き、気温も下がっていく。急斜面で足をふんばり、子どもたちを囲んで暖を取る。「怖い」と「寒い」の連続で本当に不安だっただろう。大槌の街が、いや、日本が沈没していくのかもしれないと思うほどの大参事を眼前にして不安な反面、この子たちを何が何でも助けなければ…!と強く思っていた。

明るいうちに山を下り、市街地から広がってくる火災を避けて、避難所にたどり着く。差し入れおにぎりの嬉しかったこと。子どもたちも美味しそうににほおばっていた。しかし、余震と寒さで一時も気の休まらない時間が続く。その晩は、不安がる子どもたちを足の間い入れたまま座って過ごし、ほとんど一睡もできなった。

自らを責める日々

震災から3日目、私たちを一緒に過ごしたこどもたちを、全員無事に保護者の元へお返しすることができた。迎えに来たお父さんやお母さんが「良かったぁ!生きててくれたぁ!」子どもたちの顔を見るやいなや、泣きながら抱きしめる姿を見て、私たちもホッとした。

水を被ってしまった園児たちの絵

しかし子どもたちの安否確認をする中で、9名の子どもたちが保護者と共に行方不明になっていることを知る。遺体の検索や安置所を巡る中で、変わり果てた子どもとの再会…。「なんで津波が来る前に返してしまっただろう。自分がもう少し早く状況を確認していれば、一緒ににげたはず…」深い悲しみと絶望に襲われた。もう仕事は辞めよう、保育園の再開など無理だと思っていた。

そんな中、ばらばらになっていた職員たちと震災後初めて再開した時の安心感はわすれることができない。「園長一人が抱えることじゃない」といってくれたあたたかさが身に染みた。悲しみを分け合い「私だけが、苦しい思いをしていだんじゃなかったんだ」と思えた瞬間、「よし!前を向こう!」と思うことができた。

「先生!いつ保育園やるんですか?」「待ってますね」「命を救ってくれてありがとうございました」こんな保護者さんからの温かい言葉にもたくさん支えられた。

保育園を再開する

津波に遭った園舎の泥だしを職員が苦労して行い、再開を急いだ。しかし行政からのストップがかかり、日本ユニセフ協会の全面的な支援のおかげで、6月に仮設プレハブ園舎で保育再開を果たすことができた。

前日、職員たちに「子どもたちには本当のことを伝えます。そして、みんなで一緒に乗り越えよう」と、天国に召された子どもたちの事を伝える決意を伝えていた。そして登園初日。子どもたちは、真剣に私の話を聞いていた。年長児7名はしっかりと理解し、涙を流していた…。

仮設の園舎が建った

環境が変わったこともあり、はじめは落ち着かない様子の子どもたちだったが、日々の職員との関わりの中で時間をかけて、3か月分の信頼関係を取り戻していった。「お外が怖い」といってお散歩が困難になったり、お絵描きの時間になると「描きたくない」という子もみられるよういなり、職員と大人でも精神的に回復するのは時間がかかるから、あせらずゆっくりと向き合っていこう」と話した。そんな中、「保育園楽しい!」と言って登園してくる子どもたちの笑顔に何度も救われた。

 

震災から月日が経つにつれ、子どもたちの心にも変化が見られていった。10月中旬に親子遠足を計画した時、一人の子が「行かない」と言いだした。みんなで話し合おうということになった。すると、子どもたちの口からはじめて亡くなった友だちの名前が出はじめ、全員で泣きながら「自分たちが頑張ればお空から応援してくれるんだよ」と…。私と担任は、「今、この時、この子たちと正面から向き合わなくては」とじっくり話をすることにした。

「なんで津波が来たんだろう」と一人の女の子が語りだし、「園長先生がさっ!Tちゃんたちにお家へ帰らないで!って言えば良かったじゃん!」はじめてぶつけてきた本心。「きっと、大切なものを取りに行ったんだと思う。Hちゃんもお家に大切なものあった?」「うん…。あったよ…。あのね、七五三の時に綺麗な着物を着て撮った写真…でも流されちゃった…」「そっか…3歳の時は1回だけだもんね。でも7歳でも着られるよ。きっと、「Tちゃんも大切なものを取りに行ったんだね」。そう言うと、「Tちゃんに会いた〜〜〜い!」と言って、私に抱きつき大声で泣いた。六歳の子が、こんな事を思っていたなんて。気づかないふりをしていたのは私たち大人の方だった。「先生も会いたい…」子どもたちに会いたい!一緒に大きな声で泣いた。泣くだけ泣いたら、今まで互いにかぶっていたベールがはがされていくような気持ちになった。

遊びのなかでくりかえされる「津波ごっこ」も、乗り越えるために大切な遊びであること。大人が自分の本当の気持ちから逃げれば、子どもも逃げる。大人が嘘をつけば、子どもも嘘をつく。保育士として、大人としてあるべき姿をしっかりと子どもたちにみせていくことが、震災を乗り越える原動力になると、子どもたちから教えられている様な気がし
た。

「生かされた命」を守る

「天災は忘れた頃にやってくる」「備えあれば憂いなし」「津波でんでんこ」…パソコンや携帯電話、ビデオなど記録手段のない時代に、先人たちがなんとか後世に残そうとした<想い>は、東日本大震災を経験した私たちの心を揺さぶる。しかし、長い年月の間に人はその思いを忘れ、記録は風化し、またそこに家を建てたり、何もなかったかのようにふるまう。「どうせここまでは来ない」「また注意報で終わる」しかし、自然の脅威はそんな生易しいものではなかった。

みんなでピース

ことさら乳幼児を預かる保育園では、大人が的確に誘導しなかれば救うことはできない。あらゆる想定を組んだ避難訓練を積みかさね、自分の園がどの様な立地で、子どもの足では何分で避難できるのかを確認し、一人一人の意識を高めていく必要がある。

この「生かされた命」をどの様に守るべきなのか。大切な子どもたちや友人を亡くして、あらためて考えさせられることだ。

「最後まで孫を娘に愛をいっぱいくださってありがとうございました」亡くなった園児のお祖母さんが私にかけてくださった言葉である。

私たち保育士の仕事は、今すぐに答えを出るわけではない。毎日の積み重ねの中から幼心に宿る種は、いつか大きな花へと開花するに違いない。その大輪の花をみるまで、この世から旅立ってしまった6名と、未だ見つからない3名の大切な子どもたちの分まで、目の前にいる子どもたちに沢山愛情を注ぎ、成長を見守り、力強くたくましく、大人になって「この大槌に生まれて育って良かった」と、自信を持って言える子どもに育てていきたい。

職員や保護者と共に支えあい、助け合いながら復興に向って一歩一歩前進することが何より供養だと心に誓いながら…。

今回、この様なありがたい賞を受賞するにあたり、とても迷いましたが、すべては、全国から支えて下さった皆様と、共に歩んで来た職員に感謝の気持ちを伝えたいと思い、受けることを決めました。
本当にありがとうございました。