第二部門/多年にわたる功労
水谷 修
水谷さんは、1992年横浜の進学高校から自ら望んで夜間高校へ転勤した。中華街入口に近いこの高校は、全国でも珍しい夜間部だけの学校で、授業は夕方5時から9時まで、部活が終わるのは夜の10時半になる。生徒にとってそれからが放課後となり、深夜の繁華街や公園に遊びに出かける。そこで、なんとか生徒達を早く家に帰そうとして始めたのが、「夜回り」だった。
関わった生徒が心を開くまで、自宅、暴力団組事務所、病院、風俗店など関係の場所へ行って付き合う「夜回り」である。教師時代の夜回り生活で5000人近い少年・少女と関わった。休みは1日もない。危険が伴うこともあり、警察から「日本で最も死に近い教師」と言われた。自分の指一本と引き替えに暴力団から取り戻した子もいた。その結果人生をやり直した少年・少女は数多いが、沈み込んでしまった子も少なくない。夜回りの答えはまだ出ていない。しかし、関わったどんな子にもしっかりと向き合い、休みなく活動を続けて来た。
2004年に教師を辞職したが活動は拡大した。少年・少女の非行や薬物防止のための講演で全国を駆け回る。2005年は400回の講演が予定されている。また、電話相談、メールによる相談の数は1年半で16万件に及ぶ。子ども達は、とにかく自分に寄り添ってくれる人を求めており、彼等に生き生きとした人間として向き合うことが大切だ。水谷さんは、少年・少女は「花の種」だと言う。どんな花の種も植えた人間がきちんと育て、時期を待てば必ず花を咲かせる。だが、生まれてくる子どもは親や環境を選べない。生まれながらにして不幸を背負わざるを得ない子、大人の勝手な都合で不幸を強いられる子などになんとかして人生をやり直させてやりたい。また、やり直せる社会にしたい。そんな気持ちから、「夜回り」を続け、著書や講演で訴えている。
受賞の言葉
この度は、ありがとうございました。本当に晴がましい思いです。
私は、この14年夜の世界で、明日を見失い苦しむ子どもたちと生きてきました。振り返れば、あっという間の年月でした。振り返る暇もないほど日々多くの子どもたちの哀しみと向き合ってきました。そして31の命を失いました。今回の賞に恥じぬよう、これからも夜の世界の子どもたちとともに生きていきます。